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告発\金沢地方検察庁\最高検察庁\法務省\石川県警察御中
弁護士と裁判官が共同で確定させた傷害・準強姦被告事件判決の再捜査要請に係る石川県警察珠洲警察署提出書面の情報公開

殺人未遂事件幇助の被告訴人: 木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)、岡田進弁護士(金沢弁護士会)、長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)、若杉幸平弁護士(金沢弁護士会)
名誉毀損罪の被告訴人: モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)、小倉秀夫弁護士(東京弁護士会)
市場急配センター株式会社 石川県金沢市駅西本町5丁目10番20所在
作成管理者: 石川県鳳珠郡能登町字宇出津 廣野秀樹
金沢地方検察庁御中

2018年7月20日金曜日

# Emacsによるテキストファイルの編集から振り返る、告訴・告発事件を含めた平成15年からの変遷 #

# Emacsによるテキストファイルの編集から振り返る、告訴・告発事件を含めた平成15年からの変遷 #

 昨日あたりにも書いたと思いますが、平成13年12月31日に金沢刑務所を満期出所しました。だいぶん前に書いたものがあると思いますが、釈前教育に入る数日前まで私は出所日、あるいは満期日を12月21日だとずっと思い込んでいました。

 契機満了の日が満期日ですが、満期日の翌日に釈放されるのが刑務所の決まりとなっていました。この満期日というのは、無期懲役刑や死刑ではない有期刑の場合、判決が確定した時点で決まると刑務官から説明を受けていましたし、宣告のような告知もありました。

 刑の確定と同時ではなかったと思いますが、2,3日中に、拘置所から出され分類審査の独居房に移されました。金沢刑務所の場合、同じ敷地内ですが場所も建物も違っていました。その移動の際に満期日の告知があったように思います。未決から受刑者に立場が変わった瞬間です。

 釈前というのは、釈放直前の教育のことですが、仮出所の場合は2周間前から本格的な教育のようなものがあるようですが、満期出所の場合は1周間前で、ほとんど独居房でテレビをみながら過ごすだけの時間でした。

 福井刑務所のときは、少しそれらしい講習を受けた記憶があります。覚醒剤の教育や買い物の講座もあったかもしれません。金沢刑務所の場合は、何もなかったように思います。

 金沢刑務所のときは、3人ぐらいで大浴場で昼過ぎに入浴したことをよく憶えています。一人は入れ墨をいれたヤクザ者のような若者でしたが、とても真面目そうな好青年という印象が残っています。開放感あふれる様子だったのも印象的でした。もう1,2人いたように思いますが、全く思い出せません。

 入浴時間は無制限だと言われたように思いますが、40分ほど入っていました。それがとてものんびりと長い時間であったことは、今でも銭湯で思い出すことがあります。湯治場のような浴場で、広いところを貸し切り状態でした。

 満期出所のときは、同時に門から出た受刑者が1人いました。迎えに来ていた被告発人大網健二が、乗せないでいいのかというような合図を送ったのも今久しぶりに思い出したことです。

 この時のことも告発\市場急配センター殺人未遂事件\金沢地方検察庁・石川県警察御中(@kk_hirono)にツイートとして記録が残っているのではと思います。いちいち確認するわけにもいかないですが、数日前のことでもやったつもりの見落としが起こり得ています。

 平成11年の事件では、拘置所にいたときを含め、母親は一度も面会に来ませんでした。拘置所の頃は、代わりに父方の遠縁と聞いたことのある人が何度か来ました。当時は金沢市内に住んでいると聞いていたかもしれません。その後は曽山の近くに住んでいると母に聞きました。

 手紙というのもなかったように思います。福井刑務所の頃は面会もあり、手紙もちょこちょことありましたが、母親の書いた文字とは到底思えないものでした。母親の筆跡と思えるものは、刑事裁判の記録にある供述調書にもありました。

 福井刑務所は初犯刑務所でしたが、金沢刑務所は再犯刑務所で暴力団関係者の多い刑務所でもありました。それでもちょうど過剰収容が社会問題化していた時期で、仮出所が多かったり、仮出所のための個別面談も行われていました。

 暴力団に所属したままだと仮出所は出来ないので、離脱届を含めた刑務官による相談や勧誘だったようです。常識で考えても出所前の相談や打ち合わせはありそうなものですが、私の場合、そういうものは一切ありませんでした。

 12月に入った時点で、21日だと思っていた出所が10日ほど後だと聞かされた時は、びっくりしました。母親からはその前から手紙も何もなかったので、外の様子もさっぱりわかりませんでした。

 前にも書いていると思いますが、若い警備隊長の見送りがあって、一言も挨拶せずに門の外に出て、駐車場にエンジンを掛けたワゴン車がとまっていて、被告発人大網健二が運転席にいることに気がついたのです。この迎えはまったくの予想外でした。

 事前に刑務官との相談も一切なかったので、私はバス停がどこにあるのかもわかりませんでした。金沢刑務所の場所は、金沢市内の山間のはずれで「田上(たがみ)」と呼ばれていました。住所はその名も「金沢市田上公一番地」という漫画にでも出てくるようなものです。

 田上は新興の住宅地と聞くこともありましたが、田上といえば金沢刑務所という感じで、話題として耳にするのはほとんどが、ヤクザというか暴力団の組関係者の出所の出迎えでした。その頃からだいたいの場所は知っていたのですが、行くことはありませんでした。

 今でも金沢刑務所の近くに「若松」という看板のある信号機付きの交差点があることを憶えていますが、そこは金沢市場輸送の市内配達の仕事で来たことがあるように思いました。私はその方面の配達担当だったのですが、その若松交差点より奥に行くことはなかったのです。

 ぶらぶらと暇つぶしに内川ダムや末町の奥の方にはドライブに行くことがあったのですが、不思議と田上に行くことはありませんでした。

 なお、市内配達で担当していたのは、青果の仲買の仕事で「片町・小立野コース」と呼ばれたものでした。片町は金沢市内最大の繁華街で中心部です。金沢駅からはまずまず離れています。小立野は金沢大学附属病院の代名詞にもなっていましたが、古い寺院や歴史があると聞いたこともあります。

 実際の配達コースで、大きな寺院を見たという記憶はないのですが、狭い小路も配達で通ることが多くありました。今日の朝、優先度を1番にした金沢少年鑑別所も小立野にありました。書いておく予定のことがあります。

 本項の主題に戻ります。金沢刑務所を満期出所したのが平成13年12月31日、大晦日です。満期日は前日の12月30日となるはずですが、まったく耳に聞き覚えのない日付です。

 翌年の平成14年11月25日頃から羽咋市のアパートで生活が始まりました。派遣会社の寮で、2人で共同生活になると言われていましたが、ずっと一人だけで生活することが出来ました。過ごした最後の夏だったと思いますが、クーラーを新品にしてもらい、その夏は快適に過ごせました。

 羽咋市の釜屋のアパートでの生活は、これも何度か書いてきたと思いますが、平成21年3月15日まで続きました。給料締め切りまでの残りの勤務は有給をあててもらえることになったのですが、この日の夜に宇出津に帰ったのは、当日で車の車検が切れるためでした。それで日付もよく憶えています。

 時刻は16時04分です。午後はほとんど中断をしていたような気もします。暑さで気分が悪くなることもあったので、スマホで室内温度の温度計のインストールしました。温度は28度で体感温度が33度と出ていました。思ったほど高くはなかったのですが、正確な情報を見ておきたいと思いました。

 先ほど、15時51分、ミヤネ屋が終わったあとのテレビ金沢の石川県内ニュースで、金沢市で桃の初出荷というのをやっていました。テレビで文字は出ていなかったですが、女子アナの声で「たちまち」と聞こえました。

 館町だと思い、それでGoogleマップで調べたのですが、田上がけっこう近くに見えました。隣に似た名称で館山町があったので、記憶にあるのは、あるいはそちらの方かもしれません。平成3年の9月の中頃の水曜日に、梨の集荷に行ったということがあり、これも書いておきたいと思いました。

 金沢市の小立野というのは台地のような地形になっているというイメージがあります。実際にネットで小立野台地というのを見たことがあるような気もします。金沢市内の大部分は海から続く平地なので、ちょうど小立野にあがる台地の先端のような場所が、全国的に有名な兼六園というイメージがあります。

 兼六園下という名称になっていたように思いますが、大きな交差点があってその角が金沢地方裁判所となっていました。現在も場所は同じようですが、数年前に全面的な建て替えとなったようです。

 橋場や金沢地方検察庁の方からだと、兼六園下の交差点を左折することで、金沢刑務所のある田上に向かいます。現在は山側環状道路もその辺りにあるので、交通状況は違っていると思いますが、私の記憶では途中の田井町の交差点を左折することで田上に向かいました。

 先ほども書いたように自分で車を運転して田上に行ったことはなかったのですが、その田井町の交差点を左折することで、卯辰山に行くことがありました。市内配達の配達先に、当時、サニーランドという名称だった動物園があったからです。

 本項の見出しから外れて行くので、この続きも別に書くことにしたいと思います。田井町のあたりは小立野の台地と卯辰山の間の谷間のようになっていました。卯辰山は、野田山墓地と並んで金沢市内の夜景スポットと言われていたので、数百メートルの標高はあるような気がします。

 金沢市内である場所を示す時、よく使われる、知られた地名というのはいくつかあるのですが、田井町は違いました。強いて言えば、田上を目安として、田井町も「田上の手前」などと説明したくなるような位置関係です。

 田井町の交差点を直進していくと「湯涌温泉」があったかと思いますし、道路の標識もそのようになっていたような気がします。湯涌温泉も名前だけで行ったことはなかったのですが、KYNの配管工事の仕事をしている時、1,2周間仕事に通ったことがありました。

 さきほど谷間と表現しましたが、向かい合った山同士にイメージしていた小立野の奥の館町と、田上の間は、Googleマップの地図で見ると、すぐ近くのように見えました。館町は末町の奥ではなかったかとも思っていたのですが、同円周で横に並んでいるような位置でした。

 私は金沢市内の市内配達の仕事もしていましたが、金沢市内の地図を見ながら場所を捜したという記憶がほとんどありません。地図で探すより、知っている人に道を聞いたほうが早かったとも思います。

 夜中に現地に到着して場所を探すことの多い長距離の仕事にくらべれば、市内配達は気軽に出来る仕事でしたし、道を探すことも間違えることもほとんどなかったと思います。北都運輸の市内配達の仕事をした時も、4t車でしたが、ほぼ同じようなコースが含まれていました。

 道に迷ったとか、場所を探すのに苦労したのは、昭和59年に金沢市場輸送で4t車の長距離をしていた頃の大阪市内でした。当時の給料は、売上80万円までの固定給で総支給20万円でした。80万円を超えると歩合がつくという話でしたが、売上が80万円を超えるような仕事はありませんでした。

 それでも私が10月に仕事をやめたあとは、売上が100万円を超えて歩合がつくこともあったようです。私がやめる少し前、私の紹介で入社していた珠洲市三崎出身のHMの話です。今でも名前は憶えていますが、匿名としています。

 2,3か月前ぐらいかと思いますが、中西運輸商の4t車で、山口県の宇部市、広島県内から静岡県の清水市に荷物を運ぶ仕事に同行したことは書いたと思います。その時は書いていなかったとも思いますが被告発人安田敏を、紹介で輪島屋鮮冷に入社させたという人物です。

 珠洲市三崎出身のHMは、守田水産輸送と輪島屋鮮冷の間を行き来していました。私がたまに顔を合わせていた頃は、ずっと4t車に乗務していたように思いますが、平成3年の夏か秋頃には、大型車に乗務したような話を聞いたように思います。

 彼は、私の紹介というかたちで中西運輸商に再入社したこともありました。あれも、私が中西運輸商をやめる少し前だったように思いますが、それで福井市出身のYTとは、その後も付き合いがあったようです。

 記憶も鮮明だった頃は、裁判の記録資料でも克明に書いていましたが、福井市出身のYTと最後に会ったのは、平成3年の12月の10日過ぎでした。石川丸果の売り場で、当日、山形県寒河江市から積んできたリンゴの荷降ろしをしている時に顔を合わせ、荷降ろしのあと一緒に食事をした記憶もあります。

 行きの荷物は、羽咋市の平鍛造という会社から積んだように思います。城西運輸の仕事で、営業所のようなところで安全靴を借りたことも記憶にあります。被告発人松平日出男社長は、電話でしたが親しげな感じでした。私に安全靴は返さなくてもいいと答えていました。

 事務所のドアに穴を開けることになった安全靴でしたが、被告発人池田宏美か被告発人梅野博之の供述調書では、ドアを蹴り破ったような表現になっていたかもしれません。大型車のウィング部分のシートが破れていることに気がついたときのことでした。思い当たりは、三越デパートの池袋店です。

 展示会の仕事では珍しかったように思いますが、展示会の開始に合わせ荷物を持っていく時も、終わったあとの引き上げの時も自分に仕事が回ってきた三越デパート池袋店の仕事でした。ぎりぎり屋根が擦れたかもしれないと思ったのは、夜のときだったと思います。

 引き上げの時も夜の遅い時間、22時ぐらいの仕事であったように思います。金沢市場輸送の大型車も来ていて、久しぶりに寺川さんに会ったような記憶も残っているのですが、やはり今は全体的に記憶が薄れています。

 本項は、羽咋市のアパートでの生活について書いているのでした。書いているうちに思い出すこともあるので、どんどん方向を変えて進んでしまうのですが、収拾もつかなくなりそうなので、立ち止まって、整理しながら片付けて行きたいと思います。

 今、羽咋高校か羽咋工業高校か確認するため、Googleマップで調べたのですが、驚いたことに羽咋工業高校の場所が、私が住んでいた釜屋のアパートのすぐ近くでした。

 国道249号線で、羽咋市内の街中を抜けると、川を渡ってすぐ上り坂になり、上り切った右手に大きな駐車場のコンビニがありました。そこから200メートルほど先の右手にアパートがありました。

 坂の上のコンビニの国道の向かい側の小路を入ったところに羽咋工業高校があるようです。そのコンビニにもちょくちょく買い物に行っていましたが、制服を来た高校生の姿を見たという記憶がほとんど残っていません。通学風景も同じです。

 アパートの前の国道249号線は、少しカーブになっていましたが、国道の向かい側には廃墟となったパチンコ屋の建物がありました。国道なので車通りは多かったですが、人が歩いているのを見ることはほとんどなく、近くにバス停があって、学生がいたという記憶もありません。

 羽咋市のアパートには、先ほども書いたように平成14年の11月の25日頃から平成21年の3月15日まで生活していました。細かく数えると5年3ヶ月半になるかと思います。その中間を過ぎていたと思いますが、坂の上のコンビニとは反対側に、もっと近いところにコンビニが出来ました。

 当時、坂の上のコンビニはサークルKだったと思いますが、新たにできたコンビニは、ファミリーマートであったように思います。そちらが出来てからは、ほとんどそちらばかりに行っていたように思います。派遣の仕事先もすべて、坂の上のコンビニとは反対側の志賀町方面でした。

 羽咋市は、街の大きさの割りに買い物には不便を感じる町でした。24時間営業のマックスバリュというスーパーもありましたが、近くに店というのはコンビニ以外になく、車なしにはいけませんでした。坂の途中に中華の店があって、そこではちょくちょく食事をしていました。

 だいたいの記憶ですが、羽咋市で住み始めて1,2年の間は、羽咋高校の前に大きな書店がありました。ひらがな4文字の個人名のような書店で文房具も多かったように思います。高校生の姿も多かったように思います。

 その書店がいきなり閉店となり、それから半年から1年ぐらいの間に、もう一つあった王様の本、の羽咋店も閉店となりました。王様の本は、昭和の時代から金沢市内と近郊に数店舗あったおなじみの書店でしたが、一度に全滅となったようにも思います。

 ある日、店に行くと、営業しておらず、ガラスに弁護士の名前などを入れて破産手続きに入ったとかいう張り紙がありました。

 どちらの店も、Linuxやプログラム、サーバー関連の本を買ったり、立ち読みもよくしていました。勉強のためによくお金を使った時期だったとも思います。

 平成15年は、金沢地方裁判所に再審請求を提出したこともあったと思います。春か春先だったと思います。同じ頃に、金沢市若宮の「パソコンの館」という店で、パッケージの箱に入ったRedhatLinux9を買いました。4千円だったかと思います。

 レッドハットのLinuxは、その9のバージョンが最後となり、少しすると後継のオープンソース版としてFedoraが登場しました。初めの頃は、そのFedoraやデビアンのLinuxをインストールすることが多かったのですが、この10年ぐらいはUbuntuばかりかと思います。

 調べれば出てくるのかもしれないですが、Fedoraという言葉を見かけることもなくなってずいぶん経ったように思います。ターボリナックスというのもありましたが、考えてみると自分以外に、Linuxという言葉を使うのも見ていないという気がしました。

 レッドハットリナックス9ですが、パッケージには商用のWnnとかいう日本語変換ソフトも付いていました。ちょうど5月の連休の頃だったと思いますが、それでEmacsで、日本語の文章を作成していたのですが、1ページも書き終わらないうちに、落ちるか固まり、全く使い物になりませんでした。

 平成10年頃からEmacsのことは知っていたと思いますが、当時のEmacsは日本語が扱えず、日本語を使う時はMuleという名前の多国語言語対応のものを使っていました。FreeBSDの頃です。

 時刻は、7月20日11時52分です。昨夜もいろいろと発見があって、取り上げておきたいことが増えてしまったのですが、最近は対応しきれないとも諦め気味です。記録に特化し簡潔に記しておくことも考えてきたのですが、なかなか実践が出来ていません。

 数日前から日本語変換を効率化させるため、ATOKの購入を考えているのですが、値段のこともあるのでなかなか踏み切れずになります。文章作成のパソコン環境もWindowsにしなければならないので、それも悩ましい問題です。

 また、ずいぶんとWindowsのパソコン環境から離れているので、少しは触っておいたほうが良いということも考えています。現在のUbuntuによるLinux環境は、サーバー専用に近い形での運用も視野に入れています。

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