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告発\金沢地方検察庁\最高検察庁\法務省\石川県警察御中
弁護士と裁判官が共同で確定させた傷害・準強姦被告事件判決の再捜査要請に係る石川県警察珠洲警察署提出書面の情報公開

殺人未遂事件幇助の被告訴人: 木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)、岡田進弁護士(金沢弁護士会)、長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)、若杉幸平弁護士(金沢弁護士会)
名誉毀損罪の被告訴人: モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)、小倉秀夫弁護士(東京弁護士会)
市場急配センター株式会社 石川県金沢市駅西本町5丁目10番20所在
作成管理者: 石川県鳳珠郡能登町字宇出津 廣野秀樹
金沢地方検察庁御中

2018年9月3日月曜日

# [19920111]市場急配センターの片山津温泉「せきや」での慰安会、兄の結婚式ということで不出席だった被告発人安田敏 #

# [19920111]市場急配センターの片山津温泉「せきや」での慰安会、兄の結婚式ということで不出席だった被告発人安田敏 #

 被告発人梅野博之の供述調書というのも、もう何年も目を通していないのですが、彼は被告発人安田敏も片山津温泉せきや、の慰安会に出席していたようなことを供述していたかと思います。勘違いもあるので、さほど重要な事実とも考えてはいませんが。

 片山津温泉せきや、の慰安会でのことは10年以上前と記憶していることもさほど変わりはないように思います。忘れている記憶というのは得てして気がついて驚くことが多いので、いまのところそういう自覚もないのだと思いますが、割合、一つ一つはっきりと記憶しているつもりです。

 帰りは、チューとも呼ばれていた和田君の赤色のプレリュードに乗って金沢の市場急配センターの会社に戻りました。車に乗っていたのも二人だけだったと思います。180キロのメーターを振り切るようなスピードだったので、戻る時間も早かったと思います。

 多くの人は、そのまま片山津から福井県の三国ボートレース場に行くという話していたので、被害者安藤文さんも誘われて一緒に行くのかと考えていました。被告発人池田宏美との同行です。

 市場急配センターの会社に戻ってからは、一階の運転手の休憩室でストーブにあたっていました。用事がなかったこともありますが、そのあとトナミ航空から池袋行きの展示会の荷物を積み込むことが決まっていたので、自宅アパートに戻るのも面倒で時間を潰していたのだと思います。

 トラックの洗車などもしていたように思いますが、しばらくして被害者安藤文さんが戻ってきました。中山さんなど中年男性3,4人の車に同乗してきたような話でした。高速を使わず下道を走ってきたような話も聞きました。被告発人梅野博之もいたと思います。

 戻ってすぐ、被害者安藤文さんは一階にある電話から電話を掛けていました。なにか私に対する誤解を解きたいような感じで、私に聞かせたいような話をしていましたが、電話の相手が諸江のKさんであることはわかりました。被告発人梅野博之のフォローがあったのかもしれません。

 被害者安藤文さんの電話の内容など、その場のことはもっと具体的に記憶していたと思いますが、現在は思い出せなくなっています。諸江のKさんであると疑いなく確信したのは、それだけ具体的な話があったからだと思います。

 特に被害者安藤文さんのことで、不信感を強めるようなこともなかったと思いますが、片山津温泉せきや、では、私はかなり不機嫌だったと思います。体調は悪くなかったと思いますが気分がすぐれず、寝付きも悪かったと記憶にあります。

 特に意識していたということもなかったと思いますが、片山津温泉では昭和61年の3月に前妻と結婚式を挙げており、前妻の実家が片山津温泉の近くだったので、いろいろと思い出したり、考えごとも多く、傍から見ると深刻に思い詰めていると見えたのかもしれません。

 被害者安藤文さんに対する不満もありましたが、それは年末年始から続いていたことでした。私は平成3年中に彼女との関係をはっきりさせるつもりで、年末に集中的に彼女の自宅に繰り返し電話を掛けたのですが、そのときも彼女は電話に出ようとしませんでした。

 関係をはっきりさせたいと考えたのも、彼女と関わることで自分が精神的に追い詰められ、自分自身を見失うか、すでに見失っているような強い不安があったからです。それは彼女の期待をもたせる言動とともに、振幅が多くなり、ついには平成4年4月1日の事件に至りました。

 具体的には、その後、少しして彼女と直接会う機会が3回ありました。その3回目が同じ平成4年の1月21日になります。日付を特定して記憶していることが多いのは、長距離トラック運転手という仕事の特徴でありました。事件後、過去を振り返り、運行をパズルのように当て嵌めました。

 特定しきれなかった部分もありました。被告発人木梨松嗣弁護士には、繰り返し、金沢西警察署でも取り調べのとき見せられた運行表を差し入れてほしいと繰り返し、手紙の他、電報でも頼んだと思うのですが、まったく相手にはされませんでした。

 今日は、宇出津新港のどんたく宇出津店で買い物をしたので、昨日、Aコープ能都店に買い物に行ったときだと思いますが、Aコープ能都店の近くで、被告発人木梨松嗣弁護士は、私の事件当時の記憶を減退させることを目的に、控訴審を長引かせたのかという考えが浮かびました。

 私を拘置所で精神的に追い詰め、あわよくば精神病を発症させることが目的だったとは、数年前から考えています。深澤諭史弁護士など法クラが一笑に付し、飛びつくように病人扱いしそうなこととも思いますが、その辺りこそ、弁護士脳らしい弁護士ファーストの世界観かと思います。

 被告発人木梨松嗣弁護士が、私選弁護人となった控訴審で、どのような行動をしたのか、それは金沢刑務所の記録の上でも明らかな事実だと思います。前にも書いていると思いますが、判決公判のあったのが平成5年9月7日で、その前後に木梨松嗣弁護士は全く接見の要請に応じませんでした。

 私も徹底して手紙を送信し、文字数の割りにずいぶん値段のはった電報も送りました。判決公判の期日が9月7日と決まったのも、前回公判の終了時ではなく、いきなり判決公判指定の期日の書面が郵送されてきたのです。私は刑務官ともそのことで衝突をしました。

 私の独居房で募らせた不満は、判決公判直後の母親との面会で爆発しました。金沢刑務所に戻ってすぐ、昼食の時間もすぐという時間だったと思いますが、私は拘置舎に戻る前に面会室に行き、「人権擁護委員を呼んでこい」と大声をあげ、アクリル板を力いっぱい叩きつけたのです。

 すぐに面会室から大勢の刑務官に連れ出されました。ちょうど昼食の時間だったので、食堂の近くで集まりも早く多かったのだと思います。初めは金沢大学附属病院から戻った時にも持ち込も検査を受けたと思われる部屋に連行されました。

 部屋いっぱいの多数の刑務官にねじ伏せられていましたが、いつものことのように大きな麻袋を持ってくる若い刑務官の姿がみえました。それに年配と思われる刑務官の声で、ここでは必要ないというような声が聞こえました。

 ほとんど頭を上にあげることも出来ない状態で、通路を連行され、保護房に収容されました。保護房に入れられてから革手錠をつけられました。漫画でみたような背中に逆手の革手錠ではなく、腰に前後に締め付ける革手錠でしたが、締め上げられ一時でもきつい状態が49時間ほど続きました。

 革手錠を外されたのは翌々日の13時ころだったと思いますが、それから24時間ほど引き続き保護房に収容されました。平成16年ぐらいだったように記憶しますが、名古屋刑務所で革手錠の致死事件が大問題になり、そのあと革手錠の使用は禁止になったと聞きます。

 名古屋刑務所の事件では、革手錠が直接の死因ではなく、清掃の放水で直腸を破ったのが死因であったように記憶しますが、革手錠は他にも問題があったらしく、大勢の国会議員も大きく取り沙汰し、そのあと使用禁止となったという情報を見かけました。

 もう10年近く革手錠という言葉を見かけた憶えもないので、なんのことなのかピンとこない人も多いのかもしれません。久しぶりに少し調べてみたいと思います。

 革手錠 - Google 検索 https://t.co/3sUWeMI9QT

 福島みずほの人権いろいろ0301 https://t.co/72X5GIM8ot \n 革手錠の使用は非人道的 \n 〈『部落解放』2003年1月号〉 \n (2003/01/23up)

 革手錠で腎不全、元受刑者側が敗訴 大阪高裁  :日本経済新聞 https://t.co/8b7QOs7l37 \n 昨年12月の大阪地裁判決は、男性が恐怖心などから収監中には提訴できなかった事情があったとして、時効の起算点は男性が出所した2000年7月と認定していた。

 元刑務官の再審請求、地裁が棄却 名古屋革手錠事件  :日本経済新聞 https://t.co/ZGQbdiF5Bf \n 02年5月、受刑者の腹部に革手錠のベルトを強く締め付けるなどの暴行を加え、死亡させた。また4人は同年9月、別の受刑者を革手錠で締め、重傷を負わせた。

 元刑務官4人の再審認めず 革手錠で受刑者死傷、名古屋 - 共同通信 https://t.co/02wzSaywxq \n 名古屋刑務所で2002年、受刑者の腹部を革手錠で締め付けて2人を死傷させたとして、特別公務員暴行陵虐致死と同致傷罪で有罪判決を受けた

 革手錠のGoogleの検索結果は2002年より前のものがほとんどで、はっきり禁止になったという情報は、福島瑞穂弁護士の投稿を含め見当たりませんでした。名古屋刑務所の致死の事件でも、放水が死因という情報は見当たりませんでした。5ページほど読み込んだと思います。

 思いの外、革手錠をキーワードにするGoogleの検索結果は情報の乏しいものでしたが、数年前からさほど問題にはなっていないということのようにも見えます。写真で見た革手錠も腰の左右で両手を固定するものでしたが、私が着用されたのは前後に固定するものでした。

 革手錠は拘束具の一種だと思いますが、そのような話は松原病院にいたときの被告発人安田敏の話としても聞いていました。被告発人安田敏本人も保護房のような独居に収容されたような話をしていましたが、不満を訴えながら眉毛を剃ったことが原因のように話していました。

 松原病院では、薬物中毒のヤクザの組員で、ヤクザからも相手にされなくなり、症状が重くなった収容者がかなりの数いるような話を被告発人安田敏はしていました。

 その被告発人安田敏に、私が刑務所で頭がおかしくなった、という話を聞いたと言われたことがありました。福井刑務所を出所して初めての電話のときだったかもしれないですが、そのあとだったかもしれません。記憶が新しいうちに記した書面はあるはずです。

 話を聞いたとき私は半信半疑だったのですが、被告発人大網健二は父親が殺人事件で逮捕されてすぐ、被告発人木梨松嗣弁護士の事務所に行ったとき、顔を見るなり、500万円か600万円が必要と木梨松嗣弁護士に言われたとのことです。

 500万円か600万円かはっきりしないのは聞いた私の記憶が薄れているためです。被告発人大網健二兄弟の父親の事件は、福井刑務所を出てから一月ほどして事件の逮捕のことを知ってから、図書館の北國新聞の縮小版で一通りの記事に目を通しました。

 前にも書いていると思いますが、21時前頃のテレビの石川県ニュースで、控訴審の初公判というニュースを見て、福井刑務所で大きな墨塗りか切り取りにされていた事件の逮捕が、被告発人大網健二兄弟の父親だったと知って驚いたのです。

 被疑者が逮捕される前は、石川県美川の殺人事件として読売新聞で記事を読み事件のことは知っていました。1面に、公園の学校でいる正門のような場面の大きな写真が掲載されていたと記憶にあります。山岸警部補にその事件の話をしたことも、前に書いていると思います。

 山岸警部補は、少し考え込んだ様子で、犯人はだいたいわかっている、もうじき逮捕されると思う、などと話していたと記憶にありますが、本当は私に話をして情報を得たいという迷いもあったのかと思います。大網というのは、石川県ではかなり珍しい名前と聞いていました。

 前に書いたはずですが、金沢中警察署の2階で相談したとき、急にあらたまったような態度で、山岸警部補は殉死したと聞きました。どこかの展示館にでもあるような広い個室の相談室でした。通路の横にあり、階段にも近かったように思います。

 金沢中警察署の刑事課も同じ2階にあったと思いますが、広い部屋で、部屋の中に間仕切りで相談室のようなスペースがありました。新しくなった建物の金沢西警察署でも同じような刑事課の中と思われるスペースがありました。

 金沢中警察署の刑事課に初めて入ったのは平成11年8月7日の土曜日の夜だったと思います。あとで安藤健次郎さんも同じ部屋に入ってきました。同年8月12日に逮捕されたときは、その刑事課の部屋から取調室に入ったように思うのですが、特別に広いような手前側の部屋でした。

 時刻は9月3日11時34分です。昨夜は寝たのが3時を過ぎていたと思いますが、目が覚めたのが10時45分ころと、久しぶりに遅い時間でした。

 本項で、片山津温泉せきや、でのことを一通り書くつもりでいたのですが、思い出して考えるうちに、これまでにはなかった新たな視点のようなものが芽生えてきました。

 予定では、告発事件の事実関係については、平成4年3月21日頃の静岡県清水市(現在は静岡県清水区)のことから書き始めるつもりでした。4月1日の事件の10日ほど前になり、事件へと至る経緯が、その後の事情変更の可能性を含まずにご説明できると考えたからです。

 片山津温泉せきや、でのことで改めて考え直したのは、被告発人多田敏明の友人2人の社員運転手のことです。あえて社員としましたが、当時は派遣や、アルバイトという形態も学生以外はなかった時代ではあるものの、市場急配センターでは、トラックの持ち込み運転手という形態があったからです。

 片山津温泉せきや、で印象的だったのは、朝の朝食時のことでした。宴会場のような広間で、その場所は夜の食事の時と同じだと思いました。夜のときとの違いは、席に座って食事をする人の数がまばらで少なかったことです。時間に幅があったともかんがられますし、いらない人もいたものと思います。

 夜の宴会のときは隣り合って座っていた被害者安藤文さんと被告発人池田宏美が、不自然に間をあけて座っていました。安藤文さんの方は夜の宴会のときとほぼ同じ位置だったと思います。だいたいの記憶ですが、上座から4,5番目ぐらいの席だったと思います。

 私もほぼ同じ上座からの位置でしたが、席はコの字に囲まれ、彼女が座るのは通路というか出入り口側の席でした。被害者安藤文さんと被告発人池田宏美は、端と真ん中ぐらい離れて席に座り、朝食に箸をつけていたと思います。

 些細なことと、法クラの弁護士脳からはツッコミも入りそうですが、それで思い出したのも、被害者安藤文さんの裏駐車場での駐車の始まりでした。これは平成4年4月1日の傷害・準強姦被告事件のとき、私が彼女を問い詰めた事実でもあります。長期間に渡り、他の電話での対応とも連動していました。

 裏駐車場の駐車は、弁護士にも裁判所にもまったく問題視されなかった事実関係です。最近になって強く思うようになったには、被告発人木梨松嗣弁護士の勧めで提出していた上申書を、被告発人小島裕史裁判長は全く目にしていなかった可能性がうかがえることです。








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