(ア). 加賀市大聖寺の大同工業から栃木県宇都宮市に荷物を運んだ運行
大同工業はオートバイのチェーンで有名なメーカーでしたが,最初に加賀市の会社だと知ったのも驚きでした。昭和60年に中西運輸商の仕事で初めて行き,熊本県の阿蘇山の麓のような場所まで荷物を運んだのも印象的によく憶えています。
前にネットで調べたところ,正確には大聖寺ではなく,加賀市熊坂が住所になるのかもしれません。ただ,私の記憶では大聖寺の町中にありました。
加賀温泉郷の片山津温泉,山中温泉,山城温泉に比べ,知名度は低そうですが,市役所もある加賀市の中心部が大聖寺と聞きます。大聖寺藩という藩政の歴史もあるようです。
昭和20年代,戦争中の軍事工場のように見えたのも印象的な大きな工場でした。古い建物に見えたので,実際に軍事工場として使われた歴史もあったのかもしれません。石川製作所では,爆弾や魚雷の荷物を金沢市場輸送に続き,市場急配センターでも運んでいました。
この運行の時は珍しく,市場急配センターの会社に立ち寄らないで,そのまま宇都宮市に向かったと思います。会社では事前に運行費をもらうのがいつものことだったと思います。加賀市に荷物を積みに行くときにもらっていたのかもしれません。
宇都宮市でのこともいくつか少し記憶に残っています。会社の名前が政治団体のようだったので印象に残っていたというのもあります。平成5年11月28日付の手書きの書面でもその会社名が出てきて,少し驚いたのですが,そのしばらく前にネットの検索で社名は探し出していました。
昼に宇都宮市内の書店に立ち寄り,恋愛の本を手に取って少し読んだことはよく憶えていたのですが,平成5年11月28日付の手書きの書面には,ほとんど思い出せないようなことが書いてありました。
市場急配センターで加賀市の大同工業に行ったのは,一度しか記憶になかったのですが,平成5年11月28日付の手書きの書面によると,往復の荷物だったというのです。帰りに運んだのが空タックなどとなっていました。それ以前の記憶でも荷物はホイールだったと思っていました。
ホイールと聞いていましたが,乗用車やトラックのホイールではなかったとも思います。ラックに載せて運ぶホイールだったのでしょう。なんとなくは憶えていますが,特殊そうなものに見えたと思います。
平成5年11月28日付の手書きの書面では,さらに驚くことが記述されていて,同じ宇都宮市行きの仕事を前にもやって3月24日の運行は2度目だったというのです。私は3月24日を間違って2月24日としていることも,最初は考えていました。
けっこう細かく事実が書いてありましたが,それでも隙間のようなものがあって,思い出すこともできずもどかしさを感じていました。前にも同じ仕事で宇都宮市に行っているとすると,2月24日の可能性があるようにも思えてきました。
たぶん2月24日というのは,運行上は,愛媛県の松山市の近くで積み込んだイヨカンの荷物を,新潟でおろしたことになっているはずですが,夜中に新潟で荷下ろしをして,夜中の2時か3時頃には金沢に戻っていました。
このときも諸江の24時間営業のような酒屋のコンビニのような店で買い物をし,市場急配センターの会社に戻ってから1時間ぐらいは,大型トラックの運転席で,被告発人多田敏明と話をしていたはずです。新潟への運行に彼を同乗させていました。
今,業務日報で確認したところ,2月24日から26日は,確かに協共でホイル,宇都宮となり,帰り荷が石灰で,丸一が荷主,栃木から七尾となっていました。小杉インターで降りた領収書が8,400円となっています。
ちょうどその頃に,栃木県内で石灰を積んで七尾市に向かったとき,関越トンネルで通行止めに遭遇し,大渋滞で七尾市に着いたのが夕方近くということがありました。
午後になっていたと思いますが,大渋滞から抜け出し,関越道に乗ったのは,はっきり思い出せないですが,越後川口インターの辺りだったと思います。今,Googleマップで場所をみると,小千谷市の近くでした。
小千谷市の次が,北陸自動車道との分岐点にもなる長岡市になります。余り思い出せないのですが,これを見ても関越トンネルだけの通行止めではなく,湯沢インターから次に通行止め解除に関越道のインターに乗るまで,早朝から午後まで時間が掛かったように思います。
他の領収書をみていると,2月13日に富山インターで降りたのが10,800円となっていました。山三青果の仕事なので,この時期なら群馬県の高崎インターから乗っていた可能性が高いと思います。
栃木から七尾市に向かったときは,富山インターの一つ先の小杉インターで降りています。その料金が8,400円だと,通行止めに遭い新潟県内の関越道のインターから乗っていた可能性も出てきそうです。これはいずれも大型車の料金になります。
以前,この2月下旬とも3月上旬の運行とも考えていた,我孫子警察署で大型車の通行許可証をもらった運行が,運行日報の記録で,2月13日付の通行許可申請書を確認しています。午前2時から午前10時までともなっています。
2月12日付として花園インターで降りた領収書が11,050円となっています。日付が変わる前に降りていたようですが,当時の高速道路の領収書に時間の刻印はありません。これもどこのインターから乗ったのか気になっています。
ふと,給油の領収書を見たところ,3月1日付で,「R-8カナザワSS」となっていて,時刻は13時30分となっています。今頃気がついたのですが,太陽鉱油のカードは,市場急配センターではなく金沢市場輸送のようです。「カナザワイチバ ユソ」となっています。
運行が2月28日から3月1日となっていたので,これもcalコマンドで確認したところ平成4年は2月が29日までありました。太陽鉱油の領収書は国道8号金沢という意味の記載でしたが,場所はほとんど河北郡津幡町で,検問所の近くだったと思います。
13時30分に津幡で給油となると,高岡市の中越パルプに荷積みに向かっていた可能性があります。道も混む昼に津幡に給油に行ったことは少なく,一度だけ,急に入った仕事で北陸ハイミールから七尾市に向かうときに,立ち寄り給油をしました。能瀬からの電話の時です。
市場急配センターの業務日報と領収書ですが,被告発人松平日出男は見つからないといって3月分は渡してくれませんでした。
2月28日から3月1日の業務日報には,荷主が「北都ん」となっています。運行指示書にも同じ「北都ん」とあるのでまねたのかもしれないですが,おかしな書き方です。それに北都運輸ならば,前年7月の7月頃には,倒産したと新聞に出ていました。
積み荷と思われる「品名」の項目が,「B脂」とあり,小松市からの積み込みとなっていますが,これはよく憶えている仕事でした。食肉の工場に皮を剥いだ大きな牛が上からぶら下げられていました。けっこう衝撃の光景でした。
運行指示書には大宮,業務日報には埼玉県大利根とありますが,この多分牛脂の荷物の卸先は,東北自動車道を走行中に見える工場であったように思います。たしか地名が羽生などとなっていたように思います。
そもそも大宮というのが,東北自動車道からは離れているのではないかと思います。大利根というのは聞いたことがありますが,調べてみないと場所がわかりません。
Googleマップで検索しても大利根という地名は見当たらないものの,情報が加須市に集中しています。その加須市の左上には羽生市が見えました。
国道125号線が,栗橋で国道4号線にぶつかっていますが,その辺りもよく通行する道路でした。馬鈴薯を運んだ東京の大田市場から古河市に向かうときも,栗橋で国道125線から国道4号線に出ていました。
加賀市の大同工業で荷物を積み出発してからは,国道8号線沿いの北陸食堂で食事をしたように平成5年11月28日付の手書きの書面には書いてありましたが,被告発人多田敏明を連れて,岐阜県大垣市から石灰を積んできた帰りも,北陸食堂に立ち寄ったようなことが記述されていました。
ざっと2月の業務日報に目を通したところ,2月14日に大阪の本場市場に行き,空荷で戻っていたのも意外でしたが,その次の運行の出発が2月17日となっていました。
その2月17日の業務日報には,小林運送の仕事で,豊橋から小松・金沢となっていますが,渥美と書いてあったところに訂正線が入り,下に豊橋と書き込んであります。空荷で向かった運行になりそうですが,名北の市場で馬鈴薯をおろしたあとに向かったものと考えていました。
平成5年11月28日付の手書きの書面では,栃木県での石灰の積み込み先を,葛生町と鍋山に分けていました。今,Googleマップで確認すると鍋山が栃木市だったのは納得したのですが,葛生町が佐野市になっているのは,ちょっと驚きでした。当時は郡部だったような気もします。
そういえば阿蘇に似た漢字の郡部があったことを思い出しました。調べたところ「安蘇郡」とあります。読み方まで熊本県の阿蘇と同じ「あそ」ぐんのようです。
宇都宮市内から石灰を積みに向かうのに,どの道を通ったのかも気になるところですが,余り記憶にはないものの一度だけ,佐野市内とは,逆方向から向かったような記憶は漠然ですが,あったような気もします。
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