(イ). 平成4年1月上旬,市場急配センター2階の事務所の台所付近,被害者安藤文さんの方に私の体を押しやった被告発人浜口卓也
市場急配センターの2階の事務所には,4人の応接セットがありました。出入り口から事務所正面に向かって右側になります。下から階段で上る出入り口は,事務所正面から裏側のちょうど真ん中ぐらいにありました。階段を上って入ると右手が事務所正面側,左手が裏側になります。
市場急配センターの事務所の建物自体は,ほぼ変わらず現在も残っており,Googleマップでも建物を確認できると思いますが,建設現場の仮設事務所のような大きさの建物です。鉄骨でそのまま倉庫として使われることがありそうな建造物です。
出入り口の左手は間仕切りがあって,奥に左に入るスペースがありました。これが間仕切りの内側になるのですが,奥のスペースから入ると,右手に小さな台所があって,その奥にトイレがありました。
私が出入り口から2階の事務所に入ると,応接セットで打ち合わせをやっていました。トイレに行った戻りになるのか,台所で手を洗ったのか今はわからないですが,台所にコーヒーの入ったコーヒーメーカーがあるのに気がつきました。
今まで気がつかなかったのが不思議なのですが,これは来客のために用意されていたコーヒーだったのかと思いました。しかし,そうとは思わなかったのもわけがあり,コーヒーメーカーのガラスの容器には,いっぱいに近いコーヒーが入っていたと記憶にあります。
家庭用と変わりのない大きさのコーヒーメーカーだったと思います。大きめのサイズだったかもしれないですが,特別大きいとは思いませんでした。また,市場急配センターで来客にコーヒーメーカーのこひーを出していたというのも見たことがなく,そういう来客自体,ほとんど見ることがありませんでした。
被告発人松平日出男社長は,接待上手とも聞いていましたし,石川トヨタでも営業をやっていたと聞きます。普段から不在が多く,あの事務所に来客を招いて商談を行うことは,ほとんどなかったと思います。
そのときかどうかわからないですが,次に日産ディーゼルの大型車を納入すると聞いたのも初めがその頃でした。大型車のフルモデルチェンジは,その半年か1年ほど前だったかもしれません。人気のありそうな最新型の車種となっていました。
中西運輸商は,そのほとんどが日産ディーゼルのトラックでした。例外は三菱ふそうが一台いたことは記憶にあります。それも中古で買ったものの色を塗り替えたような感じでした。ギアを替え170キロスピードが出るようにしたというのが,そのトラックだったかもしれません。
金沢市場輸送はいすゞと日野が半々ぐらいだったと思いますが,昭和59年にはなかった三菱ふそうの大型保冷車が1台いてKOがずっと乗務していました。昭和63年の12月か平成元年の1月にイワシの運搬で5台の平ボディ車が納入され,そのうちの3台が三菱ふそうだったと思います。
日産ディーゼルのトラックのトラックは,当時,日野自動車,いすゞ自動車,三菱ふそうの4つの中では,最も故障率が高いと言われ,その代わりに購入する際の審査が最も緩く,求めやすいトラックと聞いていました。
市場急配センターでも日産ディーゼルのトラックはいなかったと思います。2トン車のメーカーごとの車種の違いというのはわかりづらさもあったのですが,4トン車や10トン車になると一目で区別がつきます。
実際に見たと記憶にあるのは,浜上さんが乗務した新車だけで,3月の10日頃だったと思います。やはり日産ディーゼルのトラックだったと思うのですが,他にも大きな違いがあって,冷凍機付きのウィング車となっていたはずです。
ウィング車の箱の内部も板張りではなく,鮮魚の保冷車と同じアルミの溝がついていたかもしれません。記憶が定かではないですが,昭和62年当時の金沢市場輸送の大型保冷車は,他よりだいぶん安く1200万円ぐらいと聞いたように思います。
市場急配センターの冷凍機付きのウィング車の値段は聞かなかったと思いますが,普通に2000万円ぐらいと聞いたことはありました。
冷凍機といっても,野菜の場合はプラス5度の温度設定で,昭和63年ぐらいになると,冷凍機付きでないと高原野菜は積ませてもらえないという話でした。市場急配センターの場合は,バナナを運ぶのに冷凍機付きにしたというような話も耳に挟みました。
このバナナというのは,昭和59年,金沢市場輸送の4トン保冷車で,よく神戸から積んでくる荷物で,冬場に毛布を掛けて運んでいたことを憶えています。ちょうど金沢中央卸売市場の裏門の道路を挟んで向かい側にバナナを降ろす倉庫があり,バナナセンターと呼ばれていたように思います。
他に,レモンやオレンジも同じ倉庫に降ろしていたのですが,平成3年の9月には,少し離れた場所の新しい建物となっていました。この頃はよく東京の晴海埠頭と有明から輸入物の果物を運んでいたのです。これは外果(がいか)と呼ばれていました。
台所でコーヒーメーカーに入ったコーヒーを見つけると,私は反射的に間仕切りの前に出て,誰ともなしに「これ飲んでいいけ?」と声を掛けたのです。
すると,驚きのことが起こりました。机で仕事をしていた被害者安藤文さんが,「うん」と大きな声をあげ,私がいた台所の方に入ってきたのです。私は逆の方に戻ろうとしました。
今までは偶然と思っていたのですが,そのタイミングで日産ディーゼルとの打ち合わせが終わり,出入り口の方に人が流れ,私が出入り口の近くまで来たタイミングで,向かいから来た被告発人浜口卓也が,私を台所の方に押し戻す仕草をしたのです。
そのときの被告発人浜口卓也は笑顔でうれしそうな様子でしたが,日産ディーゼルのトラックの話が首尾よくいったようにも見えました。新車の納入は2台と聞き,一台に乗務すると決まっていたのが被告発人浜口卓也でした。
忘れているだけかもしれないのですが,被告発人浜口卓也が新車に乗務するのは見た記憶がありません。それと先ほどから気になっているのが河野さんのことです。河野さんもその頃,次に新車に乗務するという話があったように思うのです。
そもそも河野さんが市場急配センターでどの大型車に乗務していたのか思い出せません。金沢市場輸送では平成3年の1月頃に,新車の大型ウィング車が3台納車されました。私が乗務したのが2315号という車番だったと思いますが,2313号,2314号と続いていたように思います。
2313号という車番があったことははっきり憶えていて,三菱ふそうのトラックでした。最初に金沢市場輸送で小坂さんが乗務したトラックと思います。8月の終わりには市場急配センターに移り,私が被告発人安田敏を同乗させて神奈川県の厚木市に荷物を運びました。
そして11月頃には,川上板金で市場急配センターのカラーに塗り替えられました。車番が2314号と思われる大型ウィング車は,私が乗務したのと同じ日野自動車のトラックで,それまでずっと保冷車に乗務していた新保のKOが乗務しました。
小坂さんもそうですが,この新保のKOも,私が市場急配センターに移ってからほとんど会うことがなかったと思います。ただKOは,9月の10日頃に市場急配センターの1階休憩室が完成した直後,一度遊びに来ていたような気もします。
はっきりと憶えているのは,意外な組み合わせでもあったのですが,金沢市場輸送の輪島の若者の運転手で一人だけ保冷車ではなく平ボディ車に乗務していた社員運転手がいて,今名前が思い出せないことに気がついたのですが,憶えやすい名前でした。
その平ボディ車の社員運転手と一緒に,できたばかりの市場急配センターの1階休憩室に来たのが,被告発人安田繁克でした。この金沢市場輸送の平ボディ車の仕事は,イワシの運搬で加工されたミールが多く,それとは別にダンベで生のイワシを運んでいました。
イワシの運搬と同じ作業で,ダンベという水槽に入れたイワシを運ぶ仕事で,行き先は養殖魚のエサを作る工場で,三重県内が多くありました。私もよくことの仕事をしています。ダンベは片側8個で16個積み込んでいたと思います。今でも宇出津の魚市場の周辺に同じものがあります。
KOも誰かと二人で,同じ頃の同じ時間帯,だいたい16時頃かにできたばかりの市場急配センターの1階休憩室に来ていたと思うのですが,そのもう一人が思い出せず,KOが来ていたという記憶の確証も持てないところです。
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