#### 市場急配センターのことで再捜査を求めている問題,関係者の関与と影響(3)
金沢西警察署刑事課強行主任から市場急配センターから削除要請されたURLの2枚の紙について電話があり,次の方向性が定まるまで,この見出しタイトルのシリーズを続けます。このまま当分,電話がない可能性も昨夜から考えるようにはなっていますが,わかりません。
5月11日の能登庁舎で終了する20分ぐらい前ではなかったかと思いますが,市場急配センターの人に迷惑が掛かると言われ,考えてみたところ,現在の市場急配センターの社員のことは一人も知らず,告発事件との関係があるのは,ホームページに代表とされる堂野俊一という人物だけです。
私はこの市場急配センターの設立前から会社の中にいてどういう会社なのかしっていました。金沢市場輸送の市内配達部門が独立して市場急配センターになりました。その動きが最初に出たと思えるのは被告発人松平日出男の就任でしょう。
昭和63年の9月の初め前後に私は初めて被告発人松平日出男に会い,それまで長く不在だった市内配達のまとめ役だと聞きました。初めに会った頃から一度に情報が飛び込んできたのも,石川トヨタで一緒だったという運転手の竹林がいたからです。
なぜそんなことを積極的に話すのか疑問に思うこともあったのですが,被告発人松平日出男は競馬にのめり込み会社の金を横領し石川トヨタをやめることになったという話でした。当たり前のことのように話をしていましたが,どうなのか疑問でした。
同じような対応をしたのが石川トヨタで一緒だったという浅野という人物です。漢字で書くと朝野になるかもしれませんが,とりあえずこのあとは浅野で統一したいと思いますし,そういう名前を見かけたような気も多少はするのです。
過去のブログ記事や記録資料にはアサノとカタカナ表記をしているかと思います。平成3年の8月に市場急配センターで仕事をするようになったと思います。月末に飛天龍という焼肉店で飲み会があり,それが他の若い運転手2人の入社と合わせた歓迎会と聞きました。
9月頃はよく会社で姿を見かけていましたが,そのうち見かけることがなくなり,性格も暗くなり影が薄くなっていきました。平成4年1月11日片山津温泉せきや,での新年会には姿を見ていたような気もするのですが,その後には会うことがなかったかもしれません。
後で考えると何かの目的でドラマのように演技をしていたようにも思えるのですが,かなり極端な存在感の変化でした。被告発人松平日出男と同じぐらいの年齢に見えましたが,頭髪が薄くなっていることもあり,年上に見えることもありました。
気になったのは会社での格好でした。今もネットで検索すれば画像や動画も見れると思いますが,当時,「裸の大将」というドラマが流行っていて,その主人公がよれよれのランニングシャツに短パンという出で立ちをしていたのです。浅野さんの場合,短パンはなかったと思います。
» 裸の大将 - Google 検索 https://t.co/Y4zZIuSo6G
Googleの画像検索を見ると,意外に小奇麗な白いランニングシャツを着ていたのかと思ったのですが,浅野さんの場合は,白いシャツがいくらか黄ばんで見えたような記憶もあり,,服装にはこだわりが少なかったですが,これはちょっと変なのではと感じることがありました。
そんな浅野さんでしたが,一度スーツ姿を見ることがあり,そのときは会社の重役や当時レンタルビデオ店に多かったヤクザ映画の暴力団幹部役にも見えたものです。木村さんの場合もそれに似ていて,香港マフィアの親分のように見えました。
木村さんのことは昨日にも少し思い出すようになっていたのですが,さきほど考えていると,平成4年4月1日の傷害・準強姦被告事件に大きな影響を与えた人物のように思えてきたのです。サッカーでいえばアシストになるのかと思いますが,本人に自覚がなかった可能性もあります。
平成4年4月1日の夕方,私と被害者安藤文さんは金石街道沿いのレストラン十字で一応の食事をしていました。一応というのは,私は注文したハンバーグ定食に手を付けることがなく,被害者安藤文さんもアイスクリームを注文していたからです。本来の食事とは少し違うと思います。
レストラン十字の席に着くと,被害者安藤文さんは,それまでの警戒心のようなものを緩め,時折り微笑み交じりで話をするようになりました。その最初の頃だったと思うのですが,木村さんの紹介で新しい女子事務員が来るらしい,と教えてくれたのです。
そのような話は一月ほど前にも聞いていました。今は日付が特定できるほど思い出せなくなっていますが,同じ大型ウィング車の運転手だった和田くんと2台で,福井県の鯖江市に荷物を運んだ時のことです。
荷物はミールだと思うのですが,それにしてはスピードを出して北陸自動車道の高速道路を走行していたような記憶が断片的に残っています。福井に向かう時に立ち寄った尼御前サービスエリアでのことでした。
これも今は記憶がぼやけ,会話の内容が具体的に思い出せなくなっていますが,木村さんの紹介で新しい女子事務員を探しているらしいと聞いたのです。あやちゃんは話しかけても少ししか応じてくれないと,不満のようなことも口にしていました。
これも過去の記録には何度も記述していることと思いますが,夕方暗くなった時間に,和田くんと二人で一台の大型ウィング車に同乗し,北陸ハイミールに向かったことがありました。これは被害者安藤文さんにも少し原因があったことです。
今は開発されて全く道が変わっているのですが,裏道として当時の金沢西高校の前から日栄運送の前を通り,金沢港の広い道路に出る道で,ちょうど金沢港の広い道路を右折する前後のことでした。やはり私が運転をしていたように思います。
和田くんが,「広野さん彼女作らんが?」などと言った後に,「あやちゃんどうや?」と言い出したのです。そのあとの会話はちょっと思い出せなくなっていますが,私の方で受け流し,それ以上のツッコミはなかったと思います。
木村さんについては,平成3年11月頃の被告発人安田敏による工事現場突入事件がありました。便宜上事件にしていますが,刑事事件ではありません。工作と言ったほうがよいかもしれないぐらいですが,被告発人安田敏の言動は作為的なもので,他の事象にも共通していました。
そもそも遡ると,この被告発人安田敏の市場急配センターへの入社自体が仕組まれた計画だった可能性が高いのです。これも記録には繰り返し記述があるはずです。金沢市場輸送と市場急配センターの橋渡しの役割でもありました。
平成3年4月の終わり頃だったと思いますが,半年かあるいは一年ぶりの被告発人安田敏からの電話連絡があり,輪島屋鮮冷で4トン保冷車の長距離をやっている,大型免許が欲しいなどと言い出したのです。
以前に詳しく記述したものがブログ記事にもあるのではと思います。ここでは簡単に書いておきますが,被告発人安田敏を金沢市場輸送に紹介し,夜に面接をして即採用となりました。
このあとの展開が早くあらかじめ用意されていたとしか思えないものでした。金沢市場輸送に入社したはずが金沢市場輸送の事務所で被告発人安田敏の姿を見たのは夜の面接時の一度だけ,すぐに市場急配センターで市内配達の仕事を初めたと聞いたのです。
そして私は被告発人安田敏の50万円の前借りの保証人になりました。30万円から被告発人安田敏が金額をつり上げたのです。被告発人安田敏から連絡があったのは,ちょうど金沢市場輸送で被告発人東渡好信が主導した運転手のストライキがあり,ごたごたしているところでした。
私はその時点でも金沢市場輸送をやめることを具体的に考えていました。時期がはっきり思い出せないですが,実際に他の運送会社に面接に行ったこともあったと思います。会社は北陸通運になるのかもしれません。
乙丸陸橋の近くの金沢市高柳で,物流の拠点のようなところがありました。そのなかの運送会社で,そこには平成元年の春頃,北都運輸の市内配達の仕事を始める前,大型の平ボディ車で一時期ローカルの仕事をやったときのも,何度か行ったことがありました。
そのような大型平ボディ車でのローカルの仕事は,前にKKさんがやっていた仕事で,どんな仕事だったのかいろいろ聞いたような気もするのですが覚えてはいません。元石川県警察の警察官で機動隊の白バイ隊員でもあったという人物です。
まったく真面目そうな普通の人でしたが,最高裁判事の息子だと言っていました。その父親が竹沢俊寿社長の大学時代の級友とかで,社会勉強のために紹介されあずけられるようなかたちで金沢市場輸送で仕事をするようになったと話していました。
そのわりには,竹沢俊寿社長と親しく会話をしている様子を見たことがなく,多少引っかかりはありました。金沢市場輸送の二口町の事務所は3分の2ぐらいのスペースが事務員が仕事をする事務所で,間にアルミサッシ越しの壁があって,そちらが運転手の休憩室になっていました。
運転手の休憩室と呼ぶ人はいなかったような気もしますが,市内配達の運転手が夕方近くに机の上で伝票の整理をする他は,運転手がぶらぶらと時間をつぶすだけのような部屋でした。そして17時か18時を過ぎると,麻雀荘のようになりました。
被告発人安田敏の面接が行われたのもその運転手の休憩室で外からの出入り口に近い場所でした。4,5人ぐらいはいたように思うのですが,思い出すのは金沢市場輸送の社長になっていた本恒夫だけです。
まったくの初対面であるかのようにかたちどおりの面接を行ったという感じで,長い時間でもなかったですが,私にはその場でも違和感がありました。なぜなら被告発人安田敏は以前にも金沢市場輸送で仕事をしていた時期があるからです。
数日前にやめたと聞いたのが昭和60年の8月の終わり頃と思います。岐阜に仕事に行くと言っていたとも金沢市場輸送の二階の事務所の窓から聞いたのですが,事務所はまだ西念町の金沢中央卸売市場前にあった頃のことです。
私は中西運輸商で9200の新車の4t車に乗っていました。9200というのは荷台の長さで大型車と少ししか変わりません。9メートル20センチです。まったく同じ新車が2台ほぼ同時に納入され,その年の春でしたが,そのもう1台に被告発人大網健二が乗務したこともありました。
被告発人安田敏とは昭和58年の9月に入った頃から11月の10日頃まで,私が金沢市観音堂にあった被告発人安田敏のアパートに居候をし,毎日のように二人で遊び回っていました。これも詳しいことは繰り返し記録に記述があるはずです。登場人物が多くいろいろな接点もあります。
なぜ観音堂の被告発人安田敏のアパートを出たのか,今は思い出せないですが,その頃より被告発人安田敏は消火器販売の仕事に専念するようになり,出張と称して全国各地で消火器を売りまくるようになったのです。
その頃には数が増えたこともあり,詐欺まがいの消火器販売が社会問題化されるようになり,石川県内での消火器販売は難しくなったという事情もありました。
その昭和58年の12月ころには,金沢市増泉に新しいアパートを借りていた被告発人安田敏ですが,そのアパートに遊びに行ったのは多くて2,3回ではと思います。場所が車のとめにくかったことと,被告発人安田敏の不在が多いということがありました。
その12月ころには被告発人安田敏と一緒に金沢市寺町の家族風呂に行くこともあったと記憶にあります。年が変わった昭和59年1月は,10日頃か中頃だと思うのですが,金沢市場輸送で4トン保冷車の長距離の仕事を始めるようになり,そのあとは被告発人安田敏と会わなかった気がします。
風の噂のようなものでしたが,被告発人安田敏が新潟で消火器販売で警察のブタ箱に入ったとか,またシンナーに手を出して精神病が再発し,松原病院に再入院したという話を聞きました。
初めに松原病院に入院したのが昭和57年の1月ぐらいだと思います。前の年の11月の終わり頃には,たまたま七尾市の家庭裁判所の待合室で出会っていたのですが,そのときも痩せて顔色が青白く幽鬼のような雰囲気さえ漂って感じられました。心配そうな母親が横にいました。
あとで被告発人安田敏本人に聞いた話だと,2週間とか昏睡状態が続いたらしく生死の境を彷徨っていたと言っていたと思います。彼がシンナーでおかしくなった時の話は,友人らの間で伝説のように繰り返し話を聞いていました。
保護されたのが松波駅で,「カラスがカラスが呼んでいる」などと叫び,まず初めに町営住宅の隣の家に突如侵入し,就寝中だった夫人の首を締め上げたというのです。それも暴力団員の妻という話でした。
その暴力団員とは昭和57年の春頃に田ノ浦のアジトのような家で会ったことがあったのですが,金沢市場輸送の竹沢俊寿社長の社長室から出てくる姿を見たことがありました。
被告発人安田敏については,シンナーだけではなく麻薬密売グループとの接点があり,本人はシンナーで懲りているので手を出すことはなく,出したらまたすぐにおかしくなるのが分かっていると話していました。私が市場急配センターで市内配達を始めた頃のことです。
早朝のマルエーの配達コースの時だったと思うのですが,高瀬商店から荷積みを行っているトラックに戻る時,被告発人安田敏が前にバーテンをしていた店のマスターが薬物の密売で摘発されたなどと言い出したのです。ちょうど自宅で新聞記事を読んで事件はしっていたと思います。
新聞はずっと購読していました。子供の頃からずっと家には新聞があってそれが当たり前になっていたのですが,新聞を購読しなくなったのは羽咋市のアパートでの生活で,5年3か月ほどいましたが一度も購読はしませんでした。
もともと朝は苦手で血圧も当時は低かったのかと思いますが,朝はぎりぎりの時間まで寝ていて,起きて10分,15分後には出掛けていたように思うのですが,朝に新聞を読んでたまたま知っていたような記憶があります。
ちょうどその頃,だいたい平成3年6,7月頃になると思いますが,新聞で知った大きなニュースが2つあり,1つが北都運輸の倒産,もう1つが丸西水産輸送水産の社長の拳銃による片町の繁華街での射殺事件でした。
北都運輸の倒産のニュースのときは,午後4時頃になるのか市場急配センターの事務所の前に人が集まって,倒産のことを話題にしていたのですが,すごくうれしそうに話していると見えたのが被告発人松平日出男でした。
数年前まで石川県では,大手運送会社の支店を別にして一番大きいと聞いていたのが北都運輸で,2番目と聞いていたのが国勝運送でした。北都運輸は昭和58年頃に数人の友人が給食の配達の仕事をしていると聞いていました。なにやら炊飯と聞いたようにも思います。
今も同じか確認していませんが,新しくなった頃の市場急配センターでは,それと同じような給食の配達のような業務内容の記載があったように思います。北都運輸のは炊飯ではなく米飯であったかもしれません。炊があったようにも思うのですが,それが通称になっていました。
北都運輸の本社にも一度仕事に行ったことがあったのですが,かなり大きな敷地にトラックが一杯停まっていて,なにか事務所の建物を取り囲むようにトラックが集まっていたという印象が残っています。当時の松任市で国道8号線沿いでした。
ちょうど私が野々市の北都運輸の倉庫で市内配達の仕事をしていた頃のことになりますが,宇出津のKさんが北都運輸の仕事を始めたところ,被告発人松平日出男社長からやめさせろというクレームが入ったと話を聞きました。
さきほど金沢市場輸送の事務所で被告発人松平日出男を最初に見たのが昭和63年の9月の初めころと書きましたが,たぶんそのしばらく前に,姫のNさんと宇出津のK村さんの二人が古い2t車で市内配達の仕事を始めていて,ちょうどその話を被告発人大網健二に聞いていたのです。
当時はいつもの世間話のような話として聞いていたので,すぐに忘れてしまったこともあると思いますが,被告発人大網健二は最初に,魚の行商のような話を私にしていました。
金沢市場輸送の事務所の前には軽油の給油機があって,なぜかその前に集まって雑談をする機会が多かったのですが,宇出津のK村さんともそこで少し話をした憶えがあります。姫のNさんの方がよく知っていたのですが,その頃には余り会話がなかったと思います。
なぜか無口になったという印象もあった姫のNさんですが,市場急配センターで市内配達の仕事を始めてから,一度,被告発人浜口卓也の南新保のアパートに被告発人安田敏と2人で遊びに行った時,その場に姫のNさんがいて,話をしながらずいぶん落ち着いたと感じたことがありました。
記憶があいまいになっているので断定はしませんが,被告発人安田敏が松波の町営住宅でシンナー遊びをしながらおかしくなった時,姫のNさんもその場にいたと聞いたことがあったかもしれません。2人が一緒に遊ぶ姿を見たことはありませんでした。
被告発人安田敏はシンナーでおかしくなったことで,宇出津周辺の地元の友人関係からは遠ざけられるようになっていて,私も先輩に,「サトシと一緒にいて大丈夫か,寝とるとき首締められるかもしれんぞ」と本気の忠告を受けたことがありました。
魚の行商に使っていたというトラックを金沢市場輸送の給油機の前で見たようなこともあったと思います。K村さんから説明のような話を受けたように思います。買い手を探し転売するような話ではなかったかと思います。
被告発人松平日出男よりしばらく先に,姫のNさんと宇出津のK村さんを市内配達の持ち込み運転手として見かけるようになったというのが私の記憶なのですが,姫のNさんと被告発人松平日出男の関係を話で聞くことは不思議とありませんでした。
そしてしばらくすると,珠洲市大谷出身のYSさんが同じく持ち込み運転手で市内配達をするようになりました。私が能都中学校の1年生の時,YSさんは石川県立水産高校の1年生で相撲部でした。毎日のように練習に通っていたことは,前に書いたものがあると思います。
それだけではなく,昭和59年には,しばらく東力二丁目のアパートに居候を頼まれたことがあり,金沢市場輸送に紹介して面接に立ち会ったような記憶もあるのです。入社にはならず,アパートにいたのも短い間だったと思います。
昭和60年頃にも野々市町のYSさんのマンションに遊びに行くことがあり,鍋料理を振る舞われたことがありました。他にそういう経験があまりなかったのでよく憶えています。
そのYSと同じ頃に,同じ2トントラックの持ち込み運転手として見かけるようになったのが,宇出津のKさんでした。漢字一文字の名前になります。宇出津の家は田町周辺と聞いたように思うのですが,それも被告発人大網健二から聞いた話でした。
宇出津では聞いたことのない名前だったのですが,近年,祭礼委員をするようになると,宇出津には知らない名前が沢山あることを知り,逆に子供の頃の同級生の名前など,今はまったく見かけなくなった名前もけっこうあります。
宇出津のK村さんについても被告発人大網健二に話を聞いたのですが,一度,家が下岩屋か上岩屋の辺りと聞いたような気がします。話しぶりを聞いていると幼い頃からの知り合いで一緒に遊んでいたような感じでした。
今は子どもの数も極端に少なくなり,まるで事情が変わっていますが,昭和50年代でも宇出津の町内ごとにグループがあって,そのグループで遊んでいるのを見たり,実際にそのように遊んだ時期がありました。
私の場合は昭和50年4月に宇出津の小棚木に引っ越してきましたが,その周辺の子供は,しらさぎ保育所の運動場が遊び場のようになっていました。新村だと,塩谷寺のお堂の横の広場で遊ぶ子どもの集まりがありました。
被告発人大網健二の町内は宇出津でも中心部で,大橋組という町内でしたが,その辺りの子どもは映画館の横にある保育所の広場でよく遊んでいました。しらさぎ保育所が出来る前の保育所だと思いますが,現在も子ども関係の施設になっているようです。不思議と人の出入りは見かけません。
以前とは逆に今建物のある場所が広場になっていて,すごく浅いプールがあり,公園の遊具のようなものもあったように思います。敷地自体は当時と変わっていないはずで,小さな面積です。
中学生の頃も被告発人大網健二は,下岩屋の同級生とよく一緒に遊んでいました。K村さんの年も聞いていたのですが,よくは憶えておらず,だいたい5つほど年上になるのかと思います。その年代だと他に知っている人もいるのですが,他に付き合いは聞きませんでした。
一時期よく遊んでことがあったのは3つ上の世代になります。4つ上も少しいましたが,5つ上となるとほとんど知らなかったように思います。
宇出津のK村さんについては,車のブローカーをしていたようなことも聞いたような気がするのですが,それだと被告発人松平日出男との接点も商売仲間ということでわかりやすくなります。早い時期に記録したものが正確です。記憶に忠実に記録を残すことを常に心がけてきました。
そういえば姫のNさんも金沢市場輸送で4トン保冷車の長距離をしていた時期がありました。昭和59年10月に私が金沢市場輸送をやめたすぐ後に入社したように聞いた憶えなのですが,その後けっこう長い間,金沢市場輸送にいたような話も聞いていました。
その後,野々市町の運送会社で運転手をするようになったとも聞いていたのですが,その頃には会うこともなくなっていたように思います。それでも昭和60年には会っていて,私の前妻も彼のことを知っていました。
被告発人浜口卓也が市場急配センターで仕事を始める前,どういう会社なのか話を聞くため私の自宅アパートに電話をしたと後で聞いたのですが,前妻はそれを姫のNさんから電話があったように私に説明をしていたのです。
被告発人浜口卓也の方が前妻と顔をあわす機会があったとも思うのですが,宇出津の天保島のDKさんの家だったと思います。DKさんも昭和60年の春には姫の遠洋漁船に乗り,出港の見送りに行ったことを憶えています。
被告発人浜口卓也が遠洋漁船に乗るようになったのも同じ頃と思います。小木なのか姫なのかは憶えていません。船頭の話や船の名前もよく耳にはしていたのですが,余り関係のない話でもあったので憶えていることはわずかです。その僅かに憶えているのが八千代丸事件でしょう。
二百海里問題で,拿捕や操業停止が相次いだ時代でもありました。そんな中で船長が銃撃で死亡し拿捕されたのが八千代丸でした。そのとき八千代丸に乗船した被告発人安田敏の水産高校の同級生とは,出漁の少し前にマンションに遊びに行ったことがありました。
これも昭和58年の春と記憶にありますが,被告発人安田敏はいなかったと思います。宇出津の城野町のHS,その従兄弟でもある当時馬替のアパートに住んでいたHSと三人で行った記憶です。余り付き合いがなかったのに,なぜ遊びに行ったのかわかりません。女の子と同棲していました。
そのあと人づてに,長い時間,鉄砲を突きつけられたまま正座をさせられ,とんでもない目に遭ったと話していたという話を聞きました。北朝鮮だったと思うのですが,当時は韓国と区別することなく,朝鮮という人が多かったような気がします。ロシアもソビエトの時代でした。
この二百海里問題は,小木,姫の遠洋漁業に大打撃を与えました。姫は住宅の新築率とかが石川県で1番という話も聞いたほど遠洋漁業は潤っていたのですが,家が建たなくなって大工が廃業したりと,地域の経済全体に大打撃を与えたと聞いています。
ちょうど同じ頃には,ヤクザというか暴力団の世界にも変化があり,それまで義理人情とか武闘派という序列より,とにかく金を稼いで組織に上納する経済的な価値観が台頭するようになったと聞いていました。揉め事の解決や取り立てをヤクザに頼むのが普通の時代と聞いていました。
暴対法の施行で社会は一変しましたが,ヤクザや暴力団が身近にいる時代で,すぐにそれとわかるような服装や髪型が多かったのですが,それを真似するような少年,暴走族も多い時代で,ちょうど暴力団による暴走族の勧誘が活発になったのも昭和58年頃でした。
宇出津でも特に崎山で自殺や夜逃げが多くなったと聞いたのが昭和59年の夏頃になります。崎山は崎山台地とも呼ばれ,私が小学生の頃より,宅地造成が始まり,またたくまに沢山の家が出来ていました。海と山に挟まれ平地が少ないのも宇出津の特徴です。
そんななかで,最も将来性のある投資が保険金と聞くこともあり,それも被告発人大網健二から話を聞いたようにも思います。金沢から宇出津に帰り,古い家が新しくなっていたりすると,親が死んで保険金が入ったと何度か聞いたものです。
数日前に書いていると思いますが,昭和59年は,金沢市場輸送もなんとか月々の社員運転手の給料を払えているという状況だったらしく,竹沢俊寿社長の夫人が,いつもぴりぴりした様子で事務の仕事をしていました。
夜は片町で飲み屋をやっていると聞いていましたが,金沢市場輸送の運転手でも飲みに行った人は少なく,行っても全然楽しくないという話を聞くことがありました。女性2人でやっているという話も聞いたように思いますが,客入りも少ないと聞きました。
二口町の新事務所に移転してからは,金沢市場輸送の事務の仕事にのみ専念するようになった竹沢俊寿社長の夫人ですが,愛想がよくなり以前とは別人のようになりました。特に私には感謝をしていて,それが被害者安藤文さんに与えた影響も大きいと思います。
昭和61年8月の2度目の入社以降は感謝もされるようになった私ですが,昭和59年に10ヶ月ほど会社にいたときは,最低の評価に近いもので,2度目の入社のときも藤村さんに,なにかあればすぐにやめてもらうというのが入社の条件となっていました。
なぜ私が変わったかというと中西運輸商で鍛えられたからです。きつい仕事内容で命の危険も日常化していました。特に先程書いた9200の4t車ですが,荷台の高さは大型車の限界と同じ3.8メートルで,車体が底床だったので,普通の大型車を超える荷物が詰めました。
これを拳が入らない隙間で満載にするのが当時の佐川急便のルールで,満載でも1個だけの荷物でも運賃が同じという契約になっていました。実際に1個だけの積み残しの荷物を乗用車で横浜の佐川急便まで臨時で運んだこともありました。
金沢支店や加賀支店の荷物は大きなテレビの箱のような(薄型のはるか前)漆器の荷物が多かったので,それほど極端な重量になることはなく,福井店もスポーツウェアのような荷物が多かったのですが,それでもたびたび高速でタイヤが爆発していました。
タイヤが爆発したり白い煙が出るので90キロ以上のスピードは出さないようにしていましたが,それでアップダウンとカーブの多い中国自動車道を走り,広島,九州に向かっていました。普通の大型保冷車に乗務した時,どれほど仕事が楽だと感じたかわかりません。
タイヤが爆発するのはなぜか名神高速の彦根インター辺りがほとんどだったのですが,小さなジャッキをかまして自分でタイヤ交換をするというのも中西運輸商の社長直々の厳命だったのです。あとで思えば保険金でも掛けて死ぬのを期待されていたとしか思えないぐらいです。
タイヤ交換をしているとき,横に高速の大型車が通過すると,それだけでも車体が揺れて危険を感じていました。小さい1つのジャッキが外れれば,おそらく押しつぶされていっかんの終わりだったことでしょう。しかし,当時はそれにも向き合う気力がありました。
述べ8日間だったと思いますが,そのような仕事内容で九州2回,広島2回という運行を続けてやったこともありました。広島の帰路はほとんどが国道2号線の通行にもなったので,九州よりきついこともありました。
金沢市寺中町の金石街道沿いの中西運輸商の事務所は,当時,金石街道沿いに路上駐車するしかなく,それだけ事務所に顔を出す時間も少なく,自由な時間が多いということは気楽な面でした。トラックはそのまま乗用車代わりに使い,乗用車も持っていませんでした。
今の運送会社はなにかと規制や管理が厳しくなり大変だとテレビで見ることがあります。それはそれで全く別の大変さがあると想像します。車の死亡事故の数も今はずいぶん減っているようです。昭和の時代は交通戦争などと呼ばれることもありました。
金沢市場輸送の仕事も中西運輸商とは違う大変さがありました。鮮魚の仕事は遅れることが出来ず,延着すると賠償金は運転手持ちだと言われていました。事故の渋滞以外に鮮魚で延着をしたという話を聞くことはなかったですが,やっている人も変わり者が多かったのかもしれません。
大雪や大雨でも出発と到着の時間は変わらないという条件でした。それだけぴりぴりして集中力を長時間維持させた仕事をしていたとも思います。初めて行く市場でも当然道を間違えるわけにはいかず,道に迷ってしまえば,そのまま延着の可能性も出てきます。
特に神経を使ったのが魚市場の中での大型車の運転でした。一般の道路だと曲がれるか曲がれないかだいたい見当が付いたのですが,障害物の多い市場の中では,見極めが難しく感じることがありました。暴力団の代紋をつけたようなトラックもなかにはいます。
そんな経験をしていると,市場急配センターでの市内配達の仕事は本当に気楽に感じました。慌てることも焦ることもないからです。それでも別の仕事から運転手になった人は大変であったり,ミスをしてしまうこともあったようです。
私も金沢市場輸送では4トン保冷車に乗務していた頃,福岡で20個か30個ぐらいの荷物を降ろし間違え,長崎県の諫早市まで持っていくことになったことがあります。道路もよくわからなかったので,長崎市内まで行ってから諫早市に向かいました。
金沢市場輸送の東北便も混載で,卸先も沢山でした。これもいつの間にか徐々に慣れることが出来たのが幸いでした。焦ることもなかったので,荷降ろしの間違いはなかったと思います。練り製品の箱を濡らしてしまうことは少しだけあったかもしれません。
大きな化粧箱に入ったウニも決まってある荷物でしたが,横倒しにしてしまうとウニの表面が潰れ売り物にならなくなるので,それだけで50万円の弁償になると言われていました。魚の入った箱も乱箱ということで潰れたりすると,引き取ってもらえないことがありました。
事前に別の箱を探してきて入れ替えることも何回かはあったと思います。最悪なのが保冷車の後ろの扉を開けた時に,荷物が崩れて外に飛び出すことで,扉を開けるときはドキドキすることもありましたが,そういうのは幸い経験せずに済みました。
時刻は15時15分です。まだ金沢西警察署刑事課強行主任から電話の着信はないようです。お腹がすかないのでお昼は食べずにいました。テレビも一度もつけていません。
被告発人安田敏と薬物密売のことを書いていましたが,被告発人大網健二とも共通の付き合いがあった2,3人も薬物の密売とかで摘発され新聞に大きく出ていたことがありました。
私は長距離運転手をしていたということもあり,一緒に遊んだ回数も少なかったのですが,被告発人大網健二はけっこう一緒に飲み歩いていたのではと思います。なにやら女性を売り飛ばす悪事もしていたとは話を聞くこともありました。
いつ頃の話だったのかよく思い出せないのですが,被告発人大網健二の結婚式があった頃は,わりかし健全な遊び方をしているような様子だったと思います。たぶん平成2年の春のことです。それからだいぶん後に摘発の話を聞いたように思うので,平成9年以降かもしれません。
平成11年4月,被告発人大網健二は西金沢の内見会というのか住宅展示場の前で,私に,「シャブのどこが悪い,あんなん中学生でもやっとるわい」と言ったことがありました。たぶん摘発された連中の話題を出したときだと思います。
被告発人大網健二と会ったのもNテック以来,久しぶりのことでした。あれが二人で会って以前のような会話をした最後になるのかもしれません。
美川2少年殺人事件の父親のことにも触れ,被告発人大網健二は私に,「あいつ(父親)とおまえは,そのうちでっかいことやると思うとったわい。」などと言っていました。腹の探り合いで焦っているようにも思えたのですが,すでに私の方から距離を置くように警戒していました。
あと被告発人大網健二に頼まれてディスクトップのパソコンを買うのに付き合ったことを憶えているのですが,時間は完全に暗くなった夕方で,場所はビルが出来て移転する前の,野々市の百満ボルトでした。金沢なのか微妙な場所ですが,店名は金沢店となっていたかもしれません。
» 100満ボルト金沢本店 | エディオングループ店舗・チラシ検索 https://t.co/M06004Lvzs \n 石川県野々市市野代2-11
やはり住所が野々市市で店名が金沢本店でした。百満ボルトというのはちょっと違っているような気がしていたのですが,100満ボルトが正しかったようです。移転したビルではボイスレコーダーを買い,それで被告発人安田敏との会話も録音し金沢地方裁判所に提出しました。
そういえば,家電のコジマを見かけなくなったのですが,金沢市では元からあったジョーシンの他に最初に出来た家電店だったと思います。国道8号線沿いで南新保の辺り,そこに被告発人安田敏と行き,被害者安藤文さんと被告発人池田宏美が小型テレビを買っているのを見かけました。
今思い出して考えてみると,偶然とは思えなかったことです。市場急配センターの事務所の1階に運転手の休憩室が出来た頃で,3分の1ぐらいが狭い畳の部屋で,そこに小型テレビが置かれるようになったのです。
そこでテレビを観たという記憶がほとんどないのですが,よく憶えているのが運命の平成4年4月1日の午後,当時全国的に有名になっていた松井秀喜選手の星稜高校と,昔,芸能人が通う高校として有名だった東京の堀越学園との春の選抜高校野球の試合をみたことです。
被害者安藤文さんのフィルム貼りの手伝いがあった頃は,まだ建築の工事中で資材が置いてあったとも思います。なぜか大工さんが作業をしていなかったとも思いますし,大工さんの作業の様子というのもわずかに記憶が残る程度です。10日か長くて2週間ほどでの完成だったと思います。
できた休憩室には事務の机が一つ置かれ,引き出しの中には「あかさたな」でめくれるようなアドレス帳が入っていました。そのなかに被害者安藤文さんの名前と電話番号も見たように思います。
被害者安藤文さんの名前を安藤と知ったのは,それより少し前で,平成3年8月の終わり頃になるように思います。一階の事務所前で,被告発人松平日出男が生サンマの箱を持ってきて,誰かに「二階の安藤さんと池田さんに,欲しかったら取りに来るように伝えてくれ」などと声を掛けたのです。
被告発人梅野博之だけは,ずっと被害者安藤文さんのことを「あずさん」と呼びかけていました。割と声が野太く,その年代の典型的な金沢弁を話す被告発人梅野博之でしたが,被害者安藤文さんのことだけは,なぜか変わった発音で呼びかけていました。
その被告発人梅野博之も金沢市場輸送で姿を見かけるようになったのは被告発人池田宏美とほぼ同じ,昭和61年の12月でした。私は誕生日の翌日の11月27日大型免許の一発試験に合格し,すぐに市内配達の仕事をしなくなったと記憶にあります。
私が受け持っていた片町・小立野コースは金沢市内の中心部,繁華街もあるので一番大変な配達コースとも聞いていたのですが,誰かを同乗させて仕事を教え引き継ぎをするようなこともなかったと思います。
大型保冷車の空きがなかったこともあり,6トン保冷車に乗務することも少しはあったのですが,長距離ではなかったと思います。そのうちポンコツの大型平ボディ車でミールの倉庫移動を中心にするようになりました。
市内配達は朝の早い仕事で5時か5時半だったと思います。平成3年のときはそれより遅くなっていました。それに昭和61年のときは同じマルエーでも鮮魚を運んでいました。平成3年は青果物です。
金沢中央卸売市場の休日前が荷物も多く,18時とかもっと遅くの暗くなる時間まで配達をすることもあったのですが,他はもっと早い時間に終わったり,配達が終わるとトラックのまま自宅アパートに帰り,翌朝にトラックに乗って市場に行くこともあったとも思います。
要は夕方に金沢市場輸送の事務所にいることが少なかったのですが,当時は平成3年のときと違い,自分で伝票の整理をしていたという記憶もなく,事務所に行く用事もなかった気がします。タイムカードもありませんでした。
それでも一週間に何回かは金沢市場輸送の事務所に顔を出していたと思いますし,被告発人池田宏美の姿を事務所で見かけるようになったのは,やはり市内配達をやめたあとのことです。当時は名前も違っていて,吉村と名乗っていたとも思います。結婚が4回目とものちに話していました。
被告発人池田宏美は,愛想よくハキハキと話をする感じでしたが,当時の私の妻は「怖い感じがする」と言っていたことがありました。もともと言葉を交わすことも稀で,声を掛けるような用事もなかったと思います。運行費などは社長の夫人からもらっていました。
会社でも余り意識することはなかったのですが,金沢市場輸送を急遽やめることになる少し前になると,被告発人池田宏美が目立つ場所に座っていると感じるようになりました。竹沢俊寿会長夫人の左斜め前の机です。
運転手の休憩室からみると運行費の受け渡しなどに使っていた窓の前に夫人がいて,机に向かっているときは背を向けていたのですが,その左前の机の被告発人池田宏美は,こちらと向き合うかたちだったので,用事があって事務所の方をみると,以前に被告発人池田宏美が視界に入ったのです。
被告発人池田宏美の左手には本恒夫社長の机があって,こちらを向いていました。金沢市場輸送が市場急配センターと分かれた時に社長になったと聞いていたのですが,やっている仕事は以前と変わりのない配車係で,それも人に仕事を任せるようなタイプではなかったようです。
運行の指示を受けるのに本恒夫社長と向き合うことも多かったのですが,そのときにも被告訴人池田宏美が視界に入ってきました。しかし,それを意識するのようになったのは,金沢市場輸送をやめたのに近い時期だったので,それ以前はどうだったのかと不思議に思います。
被告発人池田宏美の存在を意識させるように仕向けたのも高度な計画性だったのかもしれません。これは考え過ぎではありません。なぜなら私が市場急配センターに移って仕事をするようになった当日から今度は市場急配センターの事務所で被告発人池田宏美を見るようになったからです。
時刻は16時46分です。能登町の告知放送があって,「事故で通行止めとなっていた宇出津第一トンネルの通行止めは解除されました。」という放送でした。どちらのトンネルになるのかはっきりわからないですが,下岩屋になりそうな気はします。
よほどスピードでも出さないと事故が起こる場所には思えないのですが,トンネルの出口によく右折する道路があるので,後続車がトンネル内で事故を起こしたのかもしれません。事故の程度を含めちょっと気になるお知らせです。
被害者安藤文さんの場合はもともと金沢市場輸送と市場急配センターを行き来していたのですが,初めに姿を見かけるようになってから市場急配センターの事務員と知ったのは,かなりあとのことであったように思います。
当時,出向という言葉は知識になかったと思うのですが,金沢中央卸売市場から仕事に来ているのかと考えていました。ほとんどが午前中しか姿を見なかったとも思います。
余り長い時間,金沢市場輸送の事務所にいることがなかったためか,外で出入りする被害者安藤文さんの姿を見かけたことが多く,なにか筆記用具のようなものを胸に大事そうに抱えるのも彼女の特徴でした。しかし,市場急配センターでは見なくなった気もします。
カバンのようなものではなかったと思うのですが,両腕を肘から折り曲げ隠すように抱えていたので何を持っているのかもよくわかりませんでした。目を合わすようなこともなかったと思います。それだけに弁当店の前で目が合ったときは,衝撃のようなものを感じました。
私が金沢市場輸送で平成3年1月17日に乗務した日野のウィング車に乗務していたときのことです。すでに被害者安藤文さんが市場急配センターの事務員であることは知っていたはずです。
市場急配センターの事務所が出来たのが平成2年の4月頃だったと思います。平ボディ車のイワシの運搬の仕事が終わりかけた頃は,まだ更地で建物はなく,中西運輸商で一緒だったYTと藤田さんは,中継所にすると聞いたような話をしていました。
使わなくなったイワシ運搬用の平ボディ車を,市場急配センターの事務所が出来る前の駐車場に持っていったときのことだと思います。金沢市場輸送で使わないトラックは,そのあとも平成3年の10月の初め頃まで市場急配センターの裏駐車場に駐車されていました。
平成3年10月6日,これは被害者安藤文さんに交際を申し込み断られた翌日で,日曜日だったのですが,被告発人安田敏に電話をして名古屋北部市場に馬鈴薯を降ろしに行くのに同行しました。前日の午後も被告発人東渡好信と3人で,当時の河北郡高松町に行っています。
被告発人安田敏は先に帰ったのか一緒にいなかったと思うのですが,裏駐車場にいるところに本恒夫社長が来て,私に命令するようにトラックを移動させるように言い,ちょうど私は気分が悪かったこともあり,かなり反発をする感じで断りをしました。
この事実は間違いのない記憶で,それと同じ時だったと思うのですが,被告発人東渡好信の妻と名乗る女性が,裏駐車場にいる私に被告発人東渡好信の所在に心当たりはないかと尋ねてきたのです。
おとなしそうにも見える女性でしたが,すぐに中西運輸商の社長夫人に似ていると感じました。その社長夫人とは一緒の車に乗って話をしたこともあったのですが,七尾弁の訛りも強く,小柄でありながら普通ではないものを感じさせる女性でした。
今は正確に思い出せないので,正確ではないかもしれないことですが,丸西水産輸送と北都高速の夫人と3人で話をしたとき,運転手が死ねば金が入るような話をしていたが,自分はそうは思わない。今のところ死んだのも休みに入る私用で無理な運行をした一人だけ,というような話です。
中西運輸商の社長は,七尾市の石崎の出身だと聞いていました。「いっさき」と読み,和倉温泉に近い漁師町ですが,以前より輪島の海士町と並んで能登でも特に気性が荒い土地柄で,特に話し言葉が汚いと聞いたこともありました。
気性が荒いという意味の話を聞いたのですが,個人的には豪快というイメージがあります。横綱輪島関もこの石崎の出身ですし,他にも大相撲で活躍した力士を輩出していたはずです。石崎ではないですが,その近くの食堂に言っても,食事の豪快さに驚きました。
漁師町にしてはまるでヨットハーバーのような小さな港なのですが,七尾湾で輪島のように海が荒れることも少ないはずなのに,そういう気質や伝統が続いているようです。数年前に石崎奉燈祭りを見に行ったのですが,タクシーと銭湯以外に店が見当たらないのも普通ではないと感じました。
中西運輸商は運送業の配車をする会社の名前で,運転手は中西水産輸送という別会社の社員とも聞いていましたし,トラックにはどちらの会社名も書いてあったように思います。なにか税金対策とも聞いたことがありました。ややこしいので最近は中西運輸商に一本化していました。
中西水産輸送という通り,以前は水産物を運ぶ運送会社で,それも大洋マルハの下請けとも聞きました。物置のようになっていた古い保冷車の箱には,大洋マルハの文字があったとも記憶にあります。
中西運輸商で仕事をしていた頃,大洋マルハは,太平洋のマグロ船に保険金を掛けた乗組員を乗せ,それを海に落として大きくなった会社と聞かされたことがありました。真偽は不明ですが,終戦後に近い時代の話のように聞いていました。
もともと白ナンバーで営業をしていたところ,密告の摘発で窮地にたたされ,その窮地の救いとなったのが佐川急便の仕事と聞きました。Twilogで検索すれば出てくると思いますが,東広島市の西日本運輸興業という会社から佐川急便の広島・九州便を請け負っていました。
その西日本運輸興業も倒産したと聞いたこと,中西運輸商が佐川急便から切られ,九州運送が広島・九州便を引き継いだと聞いたこと,その前後に,YTと藤田さんの二人が金沢市場輸送に中西運輸商がやっていた仕事を持ってこようとしたことなど以前に書いているはずです。
それで実際に,何人かの運転手を九州から連れてきて金沢市場輸送に入社させたのですが,ほとんどがすぐにやめてしまい,最後まで残っていたのがIという運転手でした。被告発人東渡好信と一緒に長崎県の松浦市の魚市場に行き,一緒に問題を起こしてきたという運転手です。
しばらく姿をみることがなかったと思うのですが,最後に会ったのが市場急配センターの一階休憩室だったかもしれません。北九州で起こした事故の相手が悪く,それを被告発人松平日出男が対応しているというような話だったと思います。
同じ頃に,こちらは市場急配センターの一階休憩室だったことをよく憶えているのですが,西口くんが下関市での当たり屋のような話をしていました。これもたちの悪い当たり屋のグループとかで,被害に遭ったという話をしていたように思うのですが,よく思い出せません。
西口くんについては,平成3年11月26日のこと,同年12月28日頃のこと,平成4年3月中頃,被告訴人多田敏明と三人で北安江の焼肉店に行った時のことなどを記述してきたと思います。そして,被告発人安田敏から聞いた話では,その後,事故で片足を根元から失ったということでした。
金沢市場輸送の運転手でそのあと大型保冷車の持ち込み運転手になった山田さんの娘婿と聞いていました。金沢市場輸送で仕事をするようになったのが,松浦さんの愛人の息子と聞いた被告発人安田繁克になります。
古い記録には記述があると思いますが,私はけっこう長い間,被告発人安田繁克を堂野さんの愛人の息子という理解でいました。それを自分の勘違いとも思い込んでいたのですが,たしかにそのように聞いたような気もしますし,聞き間違える話ではないように思えます。
その西口くんと被告発人安田繁克の入社も秋の初めで9月頃だったような気がします。残暑が残る時期ではなかったとも思うのですが,夕方に聞いたか初めに出会ったこととして記憶に断片が残っています。西口くんの場合は金沢市場輸送の社員ではないかもしれません。
初めから4トン保冷車の持ち込みの運転手だと聞いていました。そのトラックというのも日野の新型車でした。日野の大型車の方は平成3年10月になってもフルモデルチェンジはしていませんでした。10月12日の土曜日に納車され,私が乗務した3068号がそうでした。
» 日野自動車 4トン 歴史 - Google 検索 https://t.co/C9vyGOZfyh
ちょっと調べてみましたが,かんたんに情報を見つけられそうはない感じです。以前,昭和59年に撮影した写真をTwitterにもアップロードしていたかもしれません。
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- RT kk_hirono(再捜査要請書_警察庁・石川県警察御中)|s_hirono(非常上告-最高検察庁御中_ツイッター) 日時:2020-06-01 18:37/2018/05/09 20:31 URL: https://twitter.com/kk_hirono/status/1267389787314335746 https://twitter.com/s_hirono/status/994178083778281472
1984年_7月頃か、金沢市場輸送の4トン保冷車、撮影場所はたぶん内灘町の一つ後輩のアパートの側、スルメイカの仕事の頃_フォトスキャン:2018-05-08_171852_.jpg https://t.co/qH7gCZYvyJ
» 非常上告-最高検察庁御中_ツイッター(@s_hirono)/「金沢市場輸送」の検索結果 - Twilog https://t.co/4v89lp17gI
見つかりました。車番が6526とみえる金沢市場輸送の4トン保冷車です。この昭和59年の撮影時期,金沢市場輸送で新しかった日野の4トン保冷車の車番が7338であったように記憶しています。そのあといすゞの新車が入り,被告発人大網健二が乗務していました。
4t車にもエアーブレーキが付くようになったと聞いたことを憶えています。丸中水産と箱に大きく描いた保冷車でした。
日野の4t車の基本は昭和59年の写真にあるトラックと変わっていないと思います。その前の型も金沢市場輸送には一台あったのですが,ハンドルがパワーステアリングではなく,ハンドルが重くて大変でした。トラックのフルモデルチェンジは周期が長いと聞いていました。
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