* モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)の死刑制度批評から始まり、高橋雄一郎弁護士の大吟醸「勝訴」を経て『裁かれた命 死刑囚から届いた手紙』へと至った発見
** 死刑執行まで、書き続けた手紙。自分はどこで間違ったのか?|今日のおすすめ|講談社BOOK倶楽部
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〉〉〉:Emacs: 2020-01-05(日曜日)15:26 〉〉〉
記事を読み始めたところです。土本武司という名前には見覚えがあるのですが、元検事ということでテレビでコメントを見ていたような記憶があります。元検事というような肩書で事件や刑事裁判について解説するのは今では普通にあることですが、最初にそれを見たような気もする人物です。
このあと順不同になるかもしれないですが、順番に経緯をご説明するところ、始まりは「岡山」にあります。数日前にもテレビだったと思いますが「岡山」については気になったことがありました。女子のスポーツ選手のコメントだったような気がするのですが、よく憶えていません。
岡山で事件を起こした死刑囚のことで、これまでにも何度か取り上げてきたと思います。私の中では取り調べとも大きな関わりがあって、浜崎一検事について、数年前にGoogleで検索していたところ、その刑事裁判に関する情報が出てきたのです。
5年以上、7年ぐらいは経っているような気がしますが、その後、同じようにGoogleで検索したところ情報は見つかりませんでした。一度読んだだけの記事だったと思います。一審の弁護人として浜崎一検事が退官後に弁護士として関与したような内容と記憶にはあります。
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この長谷川からの手紙には検事・土本武司へのお礼の言葉が記されていました、最初に死刑を求刑したにもかからわず、なぜ彼は感謝の言葉を記したのか、この疑問をさぐることからこのドキュメントは始まります。
土本はどのように長谷川に接したのでしょうか。罪を素直に認めた長谷川の目には検事の姿は「警察での厳しい取り調べの中でたった一人、高圧的でない態度で接してくれた優しい目をした検事さん」と映っていたのです。
後に書かれた手紙で長谷川はこうも綴っています。
──ぼくがもし生れ変る事が出来、職業を選べと言われたら、絶対、検事さんの様な“職”には進まない積リです。何故なら、現在の検事さんの心情が身にしみてよく分かるからです。ではどんな職業に付くかと言われたら、これは簡単です。ぼくは自分が今までやって来た仕事をもう一度やってみたいのです。ぼくが歩んで来た道をもう一度やってみたいのです。ぼくが歩んで来た道をもう一度、踏み返し、何処でどう間違ったのか、納得のいく所まで自分自身、見極めたいのです。──
[source:] 死刑執行まで、書き続けた手紙。自分はどこで間違ったのか?|今日のおすすめ|講談社BOOK倶楽部 http://news.kodansha.co.jp/20160531_b01
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なかば開き直ったように罪を認め、死刑を望んでいた長谷川の心に変化が訪れます。それは新しく弁護人となった小林健治との交流が生んだものでした。「自分が死ねばいいのだ」から「改心したうえで処刑されていくことが理想」という思いへの変化、それは40通以上に及ぶ小林弁護士への手紙からうかがうことができます。「ぼくが今、一番残念と思うのは、ぼくのやったことが、ぼくのすべてをもっても償い切れない無念さなのです。ぼく一人ではすまされなかったことなのです」と。
[source:] 死刑執行まで、書き続けた手紙。自分はどこで間違ったのか?|今日のおすすめ|講談社BOOK倶楽部 http://news.kodansha.co.jp/20160531_b01
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上記の引用部分に、小林健治は弁護人、小林弁護士とあります。既に別の記事で見かけていた名前と思いますが、これも見覚えのある名前でありながら同姓同名の可能性も高いものと考えます。
私の記憶にある小林健治という人物は、法廷物あるいは裁判物の小説家で、アサヒ芸能だったとも思いますが、小説の連載がありました。私はそれを金沢刑務所の拘置所で読んでいたと記憶にあるので平成5年頃のことになるかと思います。
時刻は15時53分です。記事を読み終えました。余り長くもなく読みやすい文章だった気がします。この記事には見当たらないようですが、判決から3年か3年半後の死刑の執行で、それが1968年となっていたように思います。昭和43年です。
「(長谷川は強盗、窃盗、強盗、強盗殺人の4件の事件を起こしていました)」と記事にはありますが、被害者の数は見当たりません。これも前にみていた記事になりますが、被害者は主婦とあったように思います。永山基準となる刑事裁判にも近い時期とは思いますが、前後は未確認です。
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小杉 健治(こすぎ けんじ、1947年3月20日[1] - )は、日本の小説家。日本推理作家協会会員、1993年から1994年まで日本推理作家協会賞短編および連作短編集部門の選考委員を務めた[1]。
[source:] 小杉健治 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%89%E5%81%A5%E6%B2%BB
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どうも小杉健治を小林健治と勘違いしていたようです。1980年代にも、判決、弁護士、裁判という題名の小説が多くありますが、弁護士という経歴は見当たらず、1982年より前に、18年間プログラマーという経歴が記載されています。
なにか覚えやすい名前だったことで憶えていたということもありますが、刑事裁判に関する情報はとても少ない時代でした。ただ、連載で読んだ小説は刑事裁判ではなかった気がします。同じ作者かわからないですが、同じ頃に同じような週刊誌の連載で、弁護士会会長選の派閥争いがありました。
つぎに土本武司という人物について調べてみます。似たような雰囲気の大物俳優がいたとも記憶にあるのですが、その俳優の名前も思い出せず、すでに他界されているようには思います。
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** 土本武司という元検事、検察官出身の刑事法学者について
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〉〉〉:Emacs: 2020-01-05(日曜日)16:20 〉〉〉
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土本 武司(つちもと たけし、1935年1月4日 - )は、検察官出身の刑事法学者。元白鴎大学法科大学院教授、同研究科長。筑波大学名誉教授。法学博士(中央大学、1987年)(学位論文「過失犯の研究」)。岐阜県出身。
人物[編集]
大学在学中に司法試験に合格し、牧野英一に師事する。実務に通じた綿密な刑事訴訟法理論で著名である。日本の刑事訴訟法学者としては、河上和雄と並び、もっとも職権主義的な立場を強くとっている[独自研究?]。
1991年に発生した悪魔の詩訳者殺人事件では通報者となる。
2011年10月に大阪地裁で開かれたパチンコ店放火殺人事件(2009年7月に大阪市此花区で発生)の裁判員裁判に、絞首刑は残虐な刑罰を禁じた憲法に反すると主張している弁護側の証人として出廷。死刑制度そのものについては存置の立場であるが、絞首刑については「正視に堪えない。限りなく残虐に近いもの」と証言した[1]。
[source:] 土本武司 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E5%8F%B8
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牧野英一という名前が出てきました。刑法の勉強をしていた頃よく見かけていた名前の一つですが、顔写真を見た可能性も低いと思うのですが、名前のイメージが先行しているのか、長男が3歳ぐらいの時、石を投げつけたという近所の九十何歳という老人のことを決まって思い出します。
古風でいくつか特徴のある老人でもあったのですが、別のところで別のことをあわせて記述をしたいと思います。
ずいぶん前に名前も姿も見かけなくなっていましたが、1935年1月4日から終わりはないので存命中のようです。昭和10年1月生まれですが、安藤健次郎さんが昭和11年の確か12月25日生まれなので、実質的に2歳ほど年上になるようです。
来歴とあるところをみると、昭和35年に検事任官、東京地方検察庁検事とあります。25歳ぐらいで検事になったようですが、私が生まれる昭和39年の4年前になります。ずいぶんと生きた時代の違いを感じるのですが、これは具体的でとてもわかり易く、実感のともなうものです。
どうも検事に任官した初任地の東京地方検察庁で、死刑の求刑をしたことになるようです。
40:2020-01-05_16:15:02 ** 死刑執行まで、書き続けた手紙。自分はどこで間違ったのか?|今日のおすすめ|講談社BOOK倶楽部 https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/01/05/161500
モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)も検事の時に、死刑の求刑をしたと自分のブログに書き、常人には到底理解できないだろう、と言った感じで、私をブログのコメント欄から締め出す、正当性にもしていたと評価ができます。裏返せば、それも私の名誉毀損刑事告訴の根拠の1つです。
〈〈〈:Emacs: 2020-01-05(日曜日)16:44 〈〈〈
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