***>>2018-02-15(木曜日)10:51_[これからの記述範囲の開始時刻]>>***
満期出所の場合、一週間前に工場出役を終え、釈前教育を受けることになっていました。教育と言っても満期出所の場合は、ほとんどの時間、独房でテレビを見て過ごすという生活でした。個別に職員と面談し出所後のことを相談するということも一切ありませんでした。
釈前教育に入ってすぐではなかったかと思いますが、職員が独居房の前に来て、和倉温泉駅までの電車の切符をくれました。細かい説明はなかったと思いますが、国から支給されるもの、と言っていたように思います。
満期出所なので出所の日は懲役刑が確定した時点で決まっていました。なんと呼んでいたか思い出せなくなっていますが、判決が確定し未決から受刑者となった時点で、その満了日の日付を告知されていました。刑期満了日の翌日に出所というのも決まりだと聞いていました。
私の場合、平成9年の1月17日が刑期の満了日で翌日の18日が出所の日と決まっていました。仮釈放がないことはだいぶん前からわかっていました。
現在の制度のことは知らないので運用が変わっている可能性もあるかと思いますが、当時は、まず、カリメンと呼ばれる面接があって、その後にパロールと呼ばれるアンケート用紙のようなものの提出が求められます。このパロールが来ることが、仮釈放の現実化となっていました。
パロールのあとにあるのが、ホンメンと呼ばれる本面接で、本面接の後、一月から3ヶ月という相場で、2週間の釈前教育に入るということになっていました。それでも半年以上釈前の声がかからない人がいたり、早い人は、ホンメンの後、1,2週間という人もいたような記憶があります。
釈然に入る日は、曜日か何かでだいたい決まっていて、午後の昼過ぎだったと思いますが、刑務官が呼びに来て工場の荷物をまとめるように指示を受けます。これは、満期出所も同じでしたが、満期日からの逆算でお迎えの日にちもだいたいわかっていました。
私の場合、福井刑務所ではカリメンを受けましたが、パロールが入ることはありませんでした。
出所前、母親から連絡はありませんでした。当時はまだ足腰も不自由ではなかったので、何度か面会にも来ていたし、手紙を送ってくることもあったのですが、あるはずの連絡がまるでなかったのです。
手紙のことですが、明らかに母親本人とは筆跡の違うものでした。母親の筆跡というのは供述調書に手書きの署名があったので、よく特徴がわかっていたからです。
あと一週間足らずで、平成4年4月1日の金沢西警察署への出頭から約4年10ヶ月ぶりに社会に出る、という段階で外のこともわからないまま今後のことを指し示したのは、和倉温泉駅への切符一枚でした。
なぜ和倉温泉駅なのかも理解に苦しみました。和倉温泉駅は七尾駅の次の駅だったと思います。七尾市は能登半島で一番大きな町で、七尾市の七尾駅は乗り換えのホームにもなっていたと思います。平成9年なので、現在は終着駅となっている穴水駅から輪島線と蛸島線もつながっていました。
車に乗るようになってから鉄道はほとんど利用していなかったので、昭和56年ぐらいまでの記憶しかないのですが、宇出津駅から金沢駅までは、全部急行の最短時間で2時間半ぐらい、本数は少なかったですが全部鈍行の各駅停車でも3時間半ぐらいではなかったと思います。
全部鈍行の各駅停車で片道1500円だったような記憶もあります。平成9年の出所後から蛸島線が廃線となる平成17年まで、何度か金沢まで鉄道を利用していましたが、料金のことは記憶にありません。
金沢から宇出津までは、距離で110キロとも120キロとも聞いていましたが、金沢市から七尾市までは約60キロとなっているはずです。金沢市から福井市も車になりますが70キロぐらいだったと思います。
福井では長距離トラックの仕事で何度も行っていましたが、平成に入った頃になると、北陸自動車道という高速道路を通過するだけで、一般道の国道8号線を通行することはほとんどなくなっていました。福井の市場へはよく行っていましたが、それも夜中のことで、福井市の郊外になります。
福井刑務所は全国的にも珍しいのではと思うのですが、市内の中心部にあるようです。市内の中心部の地理はよくわかっていないですが、今Googleマップで確認をしても、刑務所のある一本木町から福井駅というのは、歩いてもそう時間の掛からなそうな距離です。足羽川という川沿いでもあります。
今、Googleマップを見ると、福井刑務所から福井駅は、自分の想像とは異なる方向にありました。福井駅の場所もよくわからなかったので、「福井駅」と検索窓に入力しました。
時刻は、2月18日16時17分となっております。昨日は雪が降り道路も白くなっていましたが、今日はほとんどの時間、明るい日差しが出るおだやかな天候のようです。まだ外には出ていません。
前々からぜひ取り上げておきたい問題の一つではあったのですが、今日の昼前から昼過ぎに掛け、桶川ストーカー殺人事件のテレビ録画をネットの動画で視聴していました。いくらか事件の印象も違ったものになったのですが、改めて注目したのが、ジャーナリストの清水潔氏です。
まだ30分ほど前でしょうか、落合洋司弁護士(東京弁護士会)のTwitterタイムラインを開いたところ、意外なニュースの発見となりました。
* ツイート:yjochi(落合洋司 Yoji Ochiai):2018/02/18 14:55: https://twitter.com/yjochi/status/965102403623165952 :
> 国営も報じる。 https://t.co/ocPRx9jieC
店に車突っ込み男性はね死亡 運転は元特捜部長の78歳弁護士 | NHKニュース https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180218/k10011334131000.html
上記のニュース記事を紹介したツイートで、サムネイルが表示されていました。これが事故と言うか事件を知るきっかけとなりましがた、その元特捜部長の人物について調べたところ意外な発見がいくつかありました。いわゆる村木裁判やフォロッピーディスク改ざん事件のことです。
いずれも大きな社会問題になった事件で検察の信頼に大きなダメージを与えたことで、当時、金沢地方検察庁に電話で相談をしていた私も相当の影響を受け、人生の歯車を狂わされたようにも思うところがあります。
村木裁判とその捜査に関連したフロッピーディスク改ざん事件ですが、どちらも自分の理解が不十分で疑問の残るところがありました。別の見方をすると、与えられた情報と印象が強すぎて、実態が見えづらい不可解さの感じる事件でした。
今日2月18日の午前7時半頃に発生したという元特捜部長の78歳弁護士の死亡事故について、フォーカスと言うか重点的な注目状態が続いていたジャーナリストの清水潔氏が、次のツイートをしているのを見かけました。
* ツイート:NOSUKE0607(清水 潔):2018/02/18 15:12: https://twitter.com/NOSUKE0607/status/965106782782734336 :
> 知る人ぞ知る石川達紘元東京地検特捜部長が死亡事故を起こす。車 を運転して店突入。「検察一家」は大激震だろう。なんだかいろいろな意味で特捜部終焉の雰囲気。 https://t.co/dgpRDcECxL
検察庁の特捜部の終焉や解体というのは、どこかの弁護士らがもっともらしく語っていた時期がありました。長い間、東京地検特捜部の活躍を報道で見ない時期でもあったと思います。最近になってリニアの談合事件で表に出てきましたが、テレビでも掘り下げた解説は見ていません。
そのリニアの談合事件も、ネットでは伊藤詩織さんの準強姦事件の被疑者となったジャーナリストの関与が話題になっていました。その伊藤詩織さんに相談を受け、警察の対応の不当性を訴えていたのもジャーナリストの清水潔氏であって、どこか桶川ストーカー殺人事件に似た構造だと見ていました。
桶川ストーカー殺人事件ですが、比較的最近になって理解の深まった事件です。ずっと前から知っていたつもりの事件でしたが、最近になって驚くような発見が次々と出てきました。そのきっかけになったのもジャーナリストの清水潔氏でした。
ジャーナリストのTwitterアカウントで注目し、ちょくちょくタイムラインを開いていたのはジャーナリスト江川紹子さんだけだったのですが、清水潔氏に注目するようになったのは、少し気になったツイートをリツイートしようとしたところ、ブロックされていることに気がついたのです。
なぜ余り見ることもなかった清水潔氏のアカウントにブロックされたのか、思いたるふしがなかったので、自分のTwilogで@関連のツイートを調べたのですが、どうやら落合洋司弁護士(東京弁護士会)のことがきっかけだったらしいという発見があったのも印象的なことでした。
少なくともジャーナリストの清水潔氏は、落合洋司弁護士(東京弁護士会)のTwitterを首都するネットでの発言や行動に、疑問を感じることはないのだろうと思いました。
時刻は、17時17分です。ジャーナリストの清水潔氏のツイートから落合洋司弁護士(東京弁護士会)に関するものを調べて、まとめ記事を2つ作成したところですが、続きは、別のところで書きたいと思います。
平成9年1月18日の話に戻します。すでに書いたように、出所の当日まで母親からの連絡は一切なかったので、釈放されたあとのことは何もわからない状態だったと思います。
数日前に思い出したことなのですが、出所前に、刑務官に呼び出され倉庫のような大きな部屋に連れて行かれたことがありました。ぼんやりした記憶しか残っていませんが、倉庫というのは棚が少なかったようにも思われ、学校の講堂のような部屋だったような印象が残っています。
そこは領置品を管理する部屋でした。刑務所も拘置所でも同じだと思いますが、入所した時、全ての持ち物は領置品としてあずかってもらうかたちになります。私本も同じですが、房内で所持するには、「仮下げ」という手続きが必要になります。拘置所では私服も同じでしたが、服役に私服はありません。
金沢地方検察庁から郵送されてきた事件の証拠物を見たのもその時だったように思います。領置品は「宅下げ」と言って面会に来た家族に引き取ってもらう手続きもありましたが、車でもなければ持って帰る方も大変なので、私の場合も郵送宅下げにしていたように思います。
出所当日のことも、断片的でぼんやりした記憶しかないのですが、それでも台車に乗せて運ぶだけの荷物を所持していたような記憶が残っています。
しかし、改めて考えてみると、当日の夜は、羽咋駅から鉄道の最終で宇出津に戻ったのですが、余り大きな荷物を持っていたという記憶はありません。その最終の電車が宇出津駅に着くのは、22時10分頃のことで、これは昭和50年代の国敵のときと変わっていなかったと思います。
国鉄の時代は、5両編成ぐらいが普通であったように思います。誰もがそれを「汽車」と呼んでいましたが、あとで汽車とは蒸気機関車のことだと聞いたことがありました。平成9年1月には、2両編成になっていたように思います。内部も電車という感じになっていたと思います。
福井刑務所は、受刑者が生活する場所と、刑務官が事務を行う役所のような場所が別になっていて、正面の入り口に近いところが役所のようになっていましたが、いくぶん迷路のような複雑な建物になっていて、初めの頃は、どこにいるのかと戸惑うこともありました。
例えば、面会室などもわかりづらい場所でした。外部から出入りがしやすくなっているのは、たぶん金沢刑務所と同じだと思います。拘置所のある建物も、地元福井の受刑者に話を聞くことはありましたが、実際に建物を見たということもありませんでした。
金沢刑務所は、内部の見通しのよい構造でしたが、どこをみても刑務所という感じの建物だったのに対して、福井刑務所では、役所のような部分というのは、町の公民館や図書館あるいは学校と同じようなつくりの建物で、頑強なコンクリート構造の比較的新しい感じの建物でした。
仮釈放の仮面接を受けたのも、懲罰委員会を受けたのも、地元福井の弁護士に法律相談を受けたもの、その役所のような建物の2階部分だったと思います。
役所のような建物には1階部分もあって、受刑者のエリアから入ってきて通路の右側の個室で、石川県警察本部の山岸警部補と告訴状のことで話をしたことがありました。刑務官の立会はなく二人っきりだったと思います。その場で、告訴調書を作成したようにも思います。
通路の左手は、ドアがいくつかある細長い部屋のように見えましたが、そこが学校で言う職員室、刑務官の本部のような部屋に見えました。出所のときは、その山岸警部補と話をした部屋の並びの奥の方の部屋で、最後の手続きを受けたように思うのですが、その先の奥から外に出たように思います。
外に出たところは、福井刑務所の正門の正面にある建物でした。前が広場か駐車場のようになっていたとも記憶にありますが、15メートルぐらいでしょうか。少し先には、正門前の広い道路が見えました。
その正門前に建物から出たのは、服役中にも一度ありました。民事訴訟の本人尋問で、被告訴人古川龍一裁判官の出張があったときのことです。外に出て、すぐ左手に別の建物があったような記憶で、その二階の部屋で本人尋問を受けたように憶えています。
被告訴人古川龍一裁判官には、2,3人の同行者がいたと思いますが、私に質問と言うか尋問をしたのは古川龍一裁判官だけでした。今改めて考えると、その場では、私は被告訴人長谷川紘之弁護士の顔を知らず、名前をしるだけだったとも考えられます。
被告訴人長谷川紘之弁護士の顔写真を見たのは、福井刑務所を出所後のことで、図書館の北國新聞の縮小版で初めて見たことが考えられます。北國新聞で見たことは間違いなく、同じように、被告訴人木梨松嗣、被告訴人岡田進弁護士の写真も見ていましたが、小さい顔写真です。
全て曜日の決まった週一回ぐらいの連載特集で、弁護士の法律相談というコーナーでした。平成4年の事件で金沢刑務所の拘置所にいるときは、ほぼ欠かさずに、北國新聞を購読していたと思います。一度だけ、読売新聞を購読したようなこともありましたが、半月単位ぐらいの注文だったかと思います。
被告訴人木梨松嗣は、精悍で正義感の強い真面目そうな顔写真に見えました。被告訴人岡田進弁護士は、白粉をつけたバカ殿が笑っているようにも見える写真でしたが、ずいぶん写りの悪いインクが滲んだような写真にも見えたという印象が残っています。
被告訴人長谷川紘之弁護士の訴状が届いたのは、平成6年の11月に入ってからだと思います。それ以前に名前を知っていた弁護士ではなかったと思うので、拘置所で購読していた北國新聞の法律相談のコーナーで、顔写真を見ていても記憶にしていたということはまずなかったことです。
考えられるのは、出所後に図書館の北國新聞縮小版で見たことですが、他の誰より印象的な特徴の際立つ顔写真でした。顔つきは若そうにもみえましたが、頭頂部が広く完全に禿げ上がり、下の方の髪の毛が長めに整っていたので、まるで時代劇のチョンマゲのカツラをかぶっているようにも見えました。
とにかく際立って目立つ天然系の髪型だったので、被告訴人古川龍一裁判官の本人尋問の時、同じ部屋にいれば気がつくはずと思いこんできたのですが、今改めて考えると、カツラを着用していれば気が付かなかったとも思いました。質問をすることはなかったので、その場にいても無意味とは思います。
時刻は2月26日12時16分です。けっこう長い間中断していたかと思います。取り上げたい、書いておきたいことが多すぎて空回りを続けてきました。別の見方をすれば、それだけ収穫の大きな期間でもありました。
中断前、何を書いていたのかよく憶えていないのですが、古川龍一裁判官や長谷川紘之弁護士のことを書いていたようです。この小項目は、このあと手短に切り上げたいと思います。
平成9年1月18日の満期出所のことですが、福井刑務所の建物から外に出ると、被告訴人としていたOSN、被告訴人としてたKYN、被告訴人大網健二の3人が、私の母親を連れてOSNの運転するワゴン車で私を迎えに来ていました。事前の連絡など一切ありませんでした。
その時の被告訴人大網健二ら3人の態度は、何か異様なものを感じさせるものでした。一つの謎が解けたのは、出所後1月ほど経った頃のことで、夜の21時前ぐらいの石川県内ニュースで、被告訴人大網健二兄弟の父親が殺人事件で逮捕されていたことを知ったことです。
私がその時見たのは、控訴審の初公判のニュースでした。事件というのは美川2少年殺人事件などと呼ばれたものです。事件のことは福井刑務所に服役中、新聞を見て知っていました。あのときは告発だったとも思いますが、調書を作成に来た山岸警部補ともその話をしました。
あやふやな記憶ですが、一月から3ヶ月前に、石川県の美川町で殺人事件があったという読売新聞の記事を見ていました。紙面に大きな写真があり、どこか公園の入口のようでしたし、記事にもそのようなことが書いてあったように思います。
その美川の殺人事件が未解決であったことから警察が頼りないというような話し方をしたのですが、その2年ほど前には、スイミングスクールの女性コーチ殺人事件があり、そちらは未解決のままで公訴時効を迎え迷宮入りしたはずです。私は拘置所で北國銀行の記事を読んでいました。
当時の松任市か辰口町に近い辺りの事件ではなかったかと思います。美川ですが、私はつい最近になって、美川町が石川郡であったと知りました。近くに寺井町があってそちらは当時の能美郡だったと思いますが、美川も同じ能美郡だと普通に思い込んでいたのです。
能美郡は、現在、能美市になっているはずです。能美郡の範囲がそのまま能美市になったように考えているのですが、調べて確認するようなことはしていません。
美川町を含んでいたと最近知った石川郡は、その中心部で金沢市内に隣接した野々市町が野々市市になりました。その最近知った情報では、その野々市町を除く石川郡のすべてと松任市が合併して白山市になったということです。
時刻は、17時22分です。今から一時間近く前になりますか、大きな発見がありました。この大見出しの主役であるジャーナリスト江川紹子さんに、ツイートの会話をミュートされていたようです。会話のミュートは知らない新機能でした。
この小項目の続きは、福井刑務所に被告訴人大網健二ら3人が私の母親を連れて迎えに来た後のこと、として取り上げたいと思います。
***<<2018-02-26(月曜日)17:28_[これまでの記述範囲の終了時刻]<<***
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