(イ). ほぼ同じ頃に入社した西口君と名古屋の元暴力団員S藤
/告発の事実/市場急配センター/被告発人安田繁克/松浦さんの愛人の息子として入社した被告発人安田繁克(平成元年9月?)/ほぼ同じ頃に入社した西口君と名古屋の元暴力団員S藤
西口君は,金沢市場輸送の古参運転手,山田さんの娘婿あるいは婚約者として,被告発人安田繁克は堂野さんの愛人の息子として,ほぼ同時の入社となり,盛り上がった話題となっていました。平成元年の9月頃と思うのですが,あるいは昭和63年かもしれません。
秋口というのか9月頃というのはなんとなく憶えています。名古屋の元暴力団員S藤も同じ頃と思うのですが,同じ頃だとすると昭和63年になると思います。これは被告発人松平日出男の登場とも近い時期でした。
同じ頃に,被告発人松平日出男とは中古車購入の話をし,被告発人松平日出男が金沢市場輸送に新型車のカリーナを私に試乗させるために持ってきたことがあり,同じ頃,S藤とは,彼が乗っていた400CCクラスのオートバイの話をしたと記憶にあります。
私はかなり長い間,被告発人安田繁克の母親の愛人を堂野さんと思い込んでいました。なので松浦さんが母親の愛人と知ったときは,かなり驚き,自分の勘違いを恥辱のように思っていたのですが,最近では勘違いではなく,そのように吹き込まれていた可能性を考えるようになっています。
堂野さんの場合も金沢市場輸送や市場急配センターの社員ではなかった可能性があるのですが,イワシのシーズンも終わりに近づいた頃に,イワシ運搬のダンプの持ち込み運転手として仕事をするようになりました。
これは私の2度目のイワシの運搬だったので,2月頃というのは平成2年になります。これだと被告発人安田繁克の入社も平成2年になります。堂野さんが先に仕事をするようになっていたことが前提になるからです。
堂野さんの愛人の息子と聞いた被告発人安田繁克ですが,これも主に金沢市場輸送の輪島の運転手に聞いたと印象にあります。一人を除き,大型保冷車の運転手で主に鮮魚を運んでいました。仕事上の接点は考えられないのですが,夕方に麻雀を堂野さんがしていたのが,知り合うきっかけとは考えられます。
私の知る範囲で,堂野さんが鮮魚の仕事をしたことはなかったのですが,配車係の本恒夫社長が無理な配車をして,たびたび自分で運行に出ていると聞いており,堂野さんにも頼んだことがあったのかもしれません。
頼むとすれば東北便ですが,鮮魚だけではなく練り製品など扱う種類が多く,慣れないと出来る仕事ではなかったと思います。可能性として輪島の運転手に堂野さんの協力を頼んだとは考えられ,それで親しくなったとは考えられます。
実際に聞いた話ではないですが,東北便の荷物だけを堂野さんに運んでもらい,金沢中央卸売市場に待機した輪島の運転手が,率先して荷降ろしの手伝いをし,荷降ろしの完了後には,堂野さんのおごりで酒を飲んだことも想定は出来るところです。
私としては堂野さんとは一緒に食事をしたこともなかったと思いますが,松浦さんには食事に連れて行ってもらい,おごってもらうこともありました。一つ強く印象に残っているのが,金石のバスターミナルで,廃車になったバスが焼き鳥屋になっていたと思います。夜遅くに行きました。
そのときに見た,松浦さんの指輪も印象に残るもので,銀色で大きな平面上の指輪でした。それと同じような指輪を平成3年3月に被害者安藤文さんがつけているのを見たのですが,3月5日は細い指輪で,清水市行きのミールを積んだ日が,その指輪だったと思います。
記録には記憶も清明な状態で繰り返し記述していると思いますが,イワシの運搬は昭和63年12月から始まった1回目と,平成元年12月から始まった2回目でメンバーががらりと変わっていました。同じだったのは松浦さんと私だけだったと思います。
繰り返しますが,堂野さんの愛人が入社する,あるいは入社したという話を聞いた頃,一度,被告発人安田繁克の姿を近くで見ているはずなのですが,その後,会社で姿をみることは少なかったと思います。
特に,一番,運転手の集まる夕方の時間帯に被告発人安田繁克の姿を見たという記憶がない気がします。笹田君と峰田君は,割とちょくちょく,仕事が終わった後も金沢市場輸送の運転手の休憩室で,ぶらぶらとしていました。テレビを見ることもあったかもしれません。
被告発人安田繁克のことではっきり印象にあり,直接,言葉を交わしたのが2月頃のことでした。たぶん平成3年になると思うのですが,これもまだ記憶が清明だったときに記述したものがあると思います。
午前中,金沢市場輸送の駐車場には雪が積もっていて,市内配達の2トン車だったと思いますが,被告発人安田繁克がスリップをさせて動けなくしていたので,運転を代わり,雪の轍から出したということがありました。
ワンデフの大型車は雪道に弱く,新潟や東北の豪雪地帯もよく走るので,こつのようなものはつかめていました。上り坂の雪道でいったん停車すると,そのまま発進できないことも普通にあったので,乗用車の運転とは比較にならず難しいものがありました。
西口君は,当初より新車の4トン保冷車の持ち込み運転手となっていましたが,やはり山田さんの存在が大きいという話でした。山田さんは途中で名前が山田さんに変わったのですが,古参といっても昭和59年の10月にはいなかった運転手で,昭和61年の8月にはいたはずです。
西口君の4トン保冷車は新車で,それもフルモデルチェンジをして間もない頃の日野のトラックだったと思います。運転手の間で話題になることはなかったですが,日野の4トン車はモデルチェンジ前の昭和59年当時の車種も同じで,英語でレンジャーという名前があったと思います。
平成3年には1月と10月に2回,日野の大型車の新車に乗務をしていますが,その当時のことは記憶にないものの,昭和59年当時の金沢市場輸送の新車の日野の大型車が,ドルフィンという名前であったことはよく憶えています。平成3年10月もフルモデルチェンジにはなっていませんでした。
908:2020-09-10_14:59:57 * 《参考資料》日野レンジャー 4代目(1989年〜2001年) https://hirono-hideki.hatenadiary.jp/entry/2020/09/10/145955
「1989年7月登場」とありました。平成元年7月です。西口君とも会う機会は少なかったと思うのですが,その4トン保冷車で仕事をする姿は見かけていました。早い段階で話もしていると思うのですが,同じ能都町の瑞穂の出身で,金沢市の尾山台高校を卒業したと聞きました。
この西口君も平成3年の秋から私の前に姿をあらわすようになり,被告発人多田敏明とともに工作活動っぽいことをやった形跡があり,私に被害者安藤文さんに関する偽りの情報を吹き込んだ可能性もあります。
S藤ですが,最初に姿を見た頃にバイクの話などして,それから長い間,姿を見かけずにいました。市内配達の仕事をしているとは聞いていましたが,仕事をする姿を見ることはなかったような気がします。そして久しぶりに姿を見たのが,平成元年12月のことでした。
これが被告発人大網健二と笹田君の車の売買を巡るトラブルになります。
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