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告発\金沢地方検察庁\最高検察庁\法務省\石川県警察御中
弁護士と裁判官が共同で確定させた傷害・準強姦被告事件判決の再捜査要請に係る石川県警察珠洲警察署提出書面の情報公開

殺人未遂事件幇助の被告訴人: 木梨松嗣弁護士(金沢弁護士会)、岡田進弁護士(金沢弁護士会)、長谷川紘之弁護士(金沢弁護士会)、若杉幸平弁護士(金沢弁護士会)
名誉毀損罪の被告訴人: モトケンこと矢部善朗弁護士(京都弁護士会)、小倉秀夫弁護士(東京弁護士会)
市場急配センター株式会社 石川県金沢市駅西本町5丁目10番20所在
作成管理者: 石川県鳳珠郡能登町字宇出津 廣野秀樹
金沢地方検察庁御中

2018年6月12日火曜日

# [1999_02]女優、新垣結衣の「逃げ恥」というドラマから思い出した金沢市桂町の被告発人大網健二が事務所と称した物置小屋 #

# [1999_02]女優、新垣結衣の「逃げ恥」というドラマから思い出した金沢市桂町の被告発人大網健二が事務所と称した物置小屋 #

 告発の事実関係を織り交ぜて書いていきたいと思います。徐々にその比率も上げていく予定です。

 昨年ではなかったかと思いますが、テレビで新垣結衣が主演の「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマが話題になっていました。「逃げ恥」とも略称されていましたが、ヒット曲とダンスを目にする機会がよくありました。

 夜の放送のドラマの方は、一度も視聴せず、気になって一度見てみようと思ったときには番組が終了していました。今年の正月だったと思いますが、その逃げ恥が数回に分けたお昼の放送となっていました。部分的な視聴でしたが、最終回と思われる回は視聴しました。

 神社でのフリーマーケットでしたが、それを見ながら思い出したことがありました。眠っていたような記憶ではなく時々思い出していたのですが、その放送を見るまではさほど重視はしていませんでした。

 記憶の方はかなり劣化していると思いますし、刑事裁判においてはしっかりした記録を残していると思いますので、要点に絞って書いておきたいと思います。まず、以前、まとめた写真資料がネット上に存在するはずなので、そちらをまず探し出したいと思います。

アルバム - Google+ https://plus.google.com/u/0/b/100408804474159646499/photos/105782624485753679454/album/5942963212568088737?authkey=CLXlkv3UuoTZNQ>

* ツイート%hirono_hideki(奉納\さらば弁護士鉄道・泥棒神社の物語)%2013/11/12 15:31%<https://twitter.com/hirono_hideki/status/400148718248542208>
> 告発/告訴_金沢地方検察庁御中 - Google+ - 資料写真/Nテックの事務所・西宅建株式会社の小屋 https://t.co/B2uOfByqt5


 写真自体は見つかったのですが、ファイル名の日付や時刻に間違いがあるようです。ファイルを見つけ、修正をしたもので新規に記事を作成しておきたいと思います。

2018年06月12日16時20分の登録: 2018年06月12日16:20記録\法務検察・石川県警察宛\写真資料:2003-02-27_172048〜2003-02-27_172350:12件 http://hirono2014sk.blogspot.com/2018/06/2018061216202003-02-271720482003-02.html>

 写真のファイル名の時刻は、Exif情報を使ったものです。デジカメなので数分の時刻のずれがあることは考えられるのですが、数十分や1時間以上のずれは考えにくいと思います。夕方の17時20分過ぎの撮影ですが、自分としては夜中の23時かとそういう時間の撮影であったように思っていました。

 季節も7月の7日か8日と考えていました。これは日付が決まっていた宇出津のあばれ祭りの日で、その日に金沢に行き、KYNの家の前で外観を観察し、それから帰り道に桂町の小屋に立ち寄った記憶がありました。しかし、よく考えてみると、その時期はまだデジカメを持っていなかったかもしれません。

 私が初めてデジカメを持ったのは、買ったものではなくワープロソフト一太郎のジャストシステム社から懸賞に当選したと宇出津の家に郵送があったものです。応募をした懸賞ではなかったので、はじめは何事か理解が出来ませんでした。

 秋頃だったように思いますし、羽咋市に住んでいて宇出津に戻ったときだったとも思うのですが、そうすると2004年の平成16年の秋ということになるので、2003年のデジカメの撮影はあり得ないということになります。日付がわかっているので、はてなダイアリーの方で調べてみます。

記事一覧 - 日暮れて途遠し http://d.hatena.ne.jp/hirono_hideki/archive/200609>

 はてなダイアリーを初めたのは2005年の12月でした。これでは情報が見つかるはずもありません。

 他に2003年5月から6月に撮影したデジカメの写真というのは、いくつかあるので、2003年2月27日の時点でもデジカメを所持していた可能性はありそうです。メールを撮影したパソコンの画面や金沢地方裁判所から郵送のあった再審請求棄却の書面なので、時期ははっきりしたものです。

 2月の27日ならば残雪が少しぐらいありそうだとも思ったのですが、暖冬が続いた時期であれば、金沢市内でも金沢港に近いので雪が残っていないのも不思議ではないのかもしれません。

 また、すぐ前が金沢港につながる主要道路になっていて交通量は多めだったと考えられますが、写真からはそういう雰囲気も感じられませんでした。その頃から周辺には新しい広い道路が出来ていたとも思うので、すでに交通量は少なくなっていたとも考えられます。

 対面通行の広めの道路でしたが、平成4年当時でも金沢港に行くには、ほとんどその道を通行していました。その後、比較的近い場所の鞍月に石川県庁が移転したので、周辺も目まぐるしく変わって新しい道路が出来ていました。


1999年(平成11年)11月1日 - 石川県庁舎(3代目)着工。
2002年(平成14年)11月25日 - 石川県庁舎竣工。
2003年(平成15年)1月6日 - 石川県庁舎開庁。

[source:] /引用元:/ 石川県庁舎 - Wikipedia <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E5%BA%81%E8%88%8E>


 前にも調べたことがあったのですが、改めて調べてみました。新庁舎が開庁したのは2003年1月とあります。着工が1999年11月です。前に見た時は気づかなかったのかもしれないですが、私は1999年8月の時点で、工事は始まっていたものと考えていたように思います。

 当時すでに、金沢市松村から県立中央病院の間に広くて新しい道路が出来ていました。1999年8月8日の傷害事件のときも、その道路から安藤健次郎さんに電話を掛け、家に来ても良いという意外な返事をもらったので、たぶんそのまま安藤健次郎さんの自宅に向かったのだと思います。

 金沢市松村から県立中央病院への新しい道路を走っていたのは、松村の交差点に大型書店があって、その店に行くときにその道路を使っていました。

 また、その松村の交差点の付近には、Nテックの仕事が決まった頃、夕方に被告発人大網健二と二人で歩いていました。そのあと、その夜に西金沢駅近くの「一水」という小料理店で、OSNと会食をしながらNテックの仕事の話をしました。宇出津のA君もいて、4人でした。

 OSNと宇出津のA君が見せに来て、それまで被告発人大網健二と二人でいたカウンター席から奥の座敷に移動したのですが、その着座のときにOSNが、「ゆうこときかんやつは殺してしまえ、殺してしまえばいい」などと脅しともとれるような言葉を呪文のようにつぶやいたのです。

 宇出津のA君というのは、家が大棚木だと聞いていました。同じ名前を仙人町と三番町の境あたりで知っていたのですが、大棚木でその名前というのは意外に感じました。宇出津では割合、同じ名前が特定の町内やその付近に多い傾向があるからです。

 1999年2月当時の私は34歳という計算になりますが、A君は二十歳から20代前半と聞いていたような気がします。割合個性的な印象深い顔立ちや雰囲気があったと思いますが、同年8月以降は見ていません。平成14年7月のあばれ祭りのときも、その姿は見ておらず、会っていなかったと思います。

 A君もOSNが社長をする大網商事という鳶職の会社の従業員でした。有限会社となっていたように思います。1991年の春の時点では「大網組」と、仕事用のライトバンの後部のガラスに大きな文字でシールのようなものを張っていました。

 1999年当時、大網商事の従業員は10人か10人ちょっとと聞いていたように思います。中には10代も含まれていたのかもしれませんが、20代前半の若者ばかりに見えました。

 私は1997年の11月からKYNの加田設備工業で仕事をするようになりました。被告発人大網健二の口利きのようなかたちにもなっていました。大網商事と現場が一緒になったのは2回あって、一つが小松市の山間部にある養護施設の現場、もう一つが辰口庁舎の現場でした。

 小松市の山間部の現場は、身体障害者の施設で四肢という名称に言葉も含まれていたので、重度の患者の入院施設と思われました。そこでは本業の鳶職として現場の足場の組立作業をしていたようですが、ほとんどが平屋の保育所のような建物であったという印象も残っています。

 いつ頃に通った現場だったのか、よく憶えていないのですが、雪が降っていたとか特に暑かったという記憶はなく、4月から5月の時期であったことが考えられます。平成10年の1998年のことです。そう何度も顔を合わすことはなく、現場に通った期間も一月より短かった気がします。

 最後にその現場に行った時は、入所者の姿を見ましたが、ちょっとした補修の工事で現場の仕事が終わってから間があったとも思います。

辰口町 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B0%E5%8F%A3%E7%94%BA>

 調べたところ2005年2月1日に寺井町、根上町、辰口町が合併して能美市になったとあります。この3つの合併というのは初めてしりました。根上町は海に近かったと思い調べてみると海岸線が含まれていました。川北町は能美郡として残っているようです。

 能美市の市役所を調べてみました。住所は辰口ではなかったものの辰口のすぐ近くで川北町寄りでした。広い道路沿いだったので旧辰口庁舎がそのまま使われている可能性はあると思います。完成した建物をみることはなかったと思います。

 辰口町には、他に北陸先端大学、いしかわ動物園がありました。いしかわ動物園も辰口庁舎と同様、加田設備工業の大きな現場で長く通う現場でした。

 加田設備工業での初めての仕事も辰口町の旅館の中庭のような場所での仕事で、2日ほど通い終わったのですが、その後も現場が北陸先端大学で2,3週間続けて通ったように思います。

 いしかわ動物園の現場に最初に行った時は、雪がたくさん積もっていました。現場に通うようになったのはそれから1,2ヶ月後だったと思いますが、その頃には雪の降る季節ではなくなっており、ほとんど同じ頃に辰口庁舎の仕事も始まったように思います。

 途中にも小さな現場の仕事がありました。9月ころは若狭美術印刷の工場、11月頃には、ゴリラという名前だったように思いますがゴルフショップの仕事がありました。当時の石川郡野々市町と松任市との境付近で、石川郡鶴来町にも近かったと思います。

 Nテックの事務所ですが、写真の撮影時ほどではなかったもののスクラップ置き場の物置でした。ちょうどぎりぎりで軽トラが小屋の中に駐車されていましたが、小屋の縦の長さが軽トラの全長とほぼ同じ、小屋の横幅は、その軽トラの幅のギリギリで3台分ぐらいだったと思います。

 中は土間で、軽トラがとまっているあたりはカビがはえていました。子供の頃、谷内自動車のスクラップ置き場を遊び場にしていたので、多少慣れた風景とは思いましたが、それを不動産・リフォーム業の事務所にして客を呼ぶとなると、とても本気とは考えられませんでした。

 被告発人大網健二は、その小屋を事務所にすることにこだわり、固定電話も設置していました。なにか企みがあっての演技として理解は出来ませんでした。私の常識的な思考力を徐々に奪い、判断力を弱らせて追い込みをかける、とでも言った感じでした。

 そんな折、一人だけ小屋の事務所に訪れたのが、本陣不動産株式会社で部下のような関係だったという若者でした。20代と聞いたように思います。印象的だったのがフリーマーケットの仕事のことを割合熱心に語っていたことでした。

 被告発人大網健二とその青年は仲も良さそうに見えましたが、なにより異様に思ったのは、あの小屋に固定電話まで設置して事務所にしているという被告発人大網健二の言動を目の前にしながら、さほど驚く様子もなかったことです。ある意味、慣れているようにも見えました。

 今考えると、フリーマーケットのことで頭が一杯で、他のことを考える余裕はなかったのかもしれません。そんな雰囲気も「逃げ恥」のドラマからは伝わりました。

 その青年は割りと大柄でスポーツマンタイプでした。体型が水泳選手のようで、オリンピックで活躍したある選手をテレビで見たとき、雰囲気が似ていると思いました。選手の名前は記憶にないですが、調べれば見つけることが出来ると思います。次のオリンピックで大活躍したと記憶にあります。

萩野公介 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%90%A9%E9%87%8E%E5%85%AC%E4%BB%8B>

 Googleの画像検索から調べました。金銀銅と大活躍したのがリオデジャネイロ五輪で、私が最初に見たのが2012年のロンドン五輪か、その大会前のテレビ報道だったと思われます。最初に見た頃の方が短髪で、小屋で見た青年と似ているという印象を受けました。

 Nテックについては、また別の機会に書きたいと思います。1998年の1月の20日頃から2月の20日頃まで、その仕事らしいものをさせられたのですが、収入は0円でした。初めの面接は本陣不動産株式会社の駅西の事務所でしたが、その仕事を始めるとすぐに、同社を退社したと言い出しました。

 その時点でも被告発人大網健二の名刺は本陣不動産株式会社営業課長となっていたと思います。退社したと言ったあとも、フリーで仕事を回すとか言ってみたり、駅西の事務所に近くに車を止めて会社に入って不動産の物件情報を印刷して持ってきたりしていました。

 Nテックの仕事をすることになったのは、12月いっぱいでKYNの加田設備工業をクビになってからの流れでした。入社のときも被告発人大網健二の口利きがありましたが、どちらも偶然とは思えなり成り行きでした。

 半年以上だったと思いますが、ずいぶん長い間、被告発人大網健二が姿を見せず連絡もしてこない時期がありました。連絡があってちょくちょくと会うようになったのも、1998年の11月頃だったと思います。その初めの頃に行ったのも、西金沢駅近くの一水という小料理屋でした。

 たしかクーラーの取り付けのような相談で、被告発人大網健二、KYNと三人で、その住宅を兼ねた店舗に行ったのですが、建築工事が終わったばかりか終了間際という状態でした。2階の部屋の方で話をしていたのですが、ロフトというものを見たのもそれが初めてだったように思います。

 かなり強い雨の中、西金沢駅近くの一水の住宅兼店舗に行きました。その前は、KYNの家の近くの居酒屋にいたような記憶もあります。店の前に赤提灯が並んだような店でしたが、KYNの家から歩いてすぐの場所だったものの、店に入ったのは全部で3,4回だったように思います。

 最後にその店に入ったのも、私が永久開発で日雇い人夫の仕事を始め落ち着いた頃で、4月か5月になっていたと思います。KYNと二人だけで飲んで、代行タクシーで北安江の借家まで帰ったような記憶があります。代行タクシーを自分で利用したというのも、その時が最初で最後だったように思います。

 そのときのKYNは、落ち着いて友好的な雰囲気でしたが、ずいぶんと深く考え込んでいる様子にも見えました。言葉をかえれば深刻に思い悩んでいる様子にも見えたということです。

 また、3人で西金沢駅近くの一水に行った時は、被告発人大網健二のマークⅡで行ったように思います。色は白かベージュでした。1997年の3月頃に宇出津に来ていた頃も同じ車だったと思います。Nテックの頃には、黒い色のボルボに乗っていました。スエーデン製の外車です。

 被告発人大網健二のボルボは左ハンドルだったような気がしますが、被告発人若杉幸平弁護士の事務所に連れて行かれたときも、そのボルボだったと思います。ボルボは世界一頑丈な車ともいわれ、知られていたと思いますが、名前を聞くことがなくなって久しいので、知らない人も多そうです。

 同じく黒色だったように思いますが、OSNもボルボに乗っていた時期がありました。モデルチェンジが少ないヨーロッパ車で型はほとんど変わっていなかった気もしますが、まだ昭和の時代であったように思います。

 昭和59年の夏ころには、OSNはディーゼルエンジンのセドリックに乗っていました。かなりポンコツだったと思いますが、一度ドライブで、滋賀県の木之本の辺りまで行ったことがありました。琵琶湖のほとりです。

 Nテックでは、被告発人大網健二から10万円か15万円を現金で借りました。それも金沢駅の東金沢寄りの雑居ビルの中にあるアコムの機械でした。初めは月に20万円ぐらいは保証するという話だったのですが、いざ始めると被告発人大網健二は豹変して、完全歩合制などと言い出したのです。

 その10万円か15万円は、私が金沢刑務所に服役中、母親が完済したという話を聞きました。満期出所のとき迎えに来た被告発人大網健二が驚いたように話していましたが、その後、支払いをしたという。母親のメモ書きのようなものを見つけました。

 チェリー商事のことですが、写真にある割合新しい倉庫のような建物それになります。Nテックの札のようなものも掲げられており、実態のある会社に思えます。

 まだ、Nテックの仕事をしていた頃、その簡易倉庫のような建物の側面の窓から老人が顔を出し、この建物を譲ってやってよいというような話を被告発人大網健二にしていたのです。そのときにチェリー商事という名前を聞いたと思いますが、別に看板も出ていたかもしれません。

 被告発人大網健二はその老人のことを、昔はその業界で活躍した人物のようなことを言っていましたが、私がその老人を見た時のイメージは、大滝秀治という俳優に重なりました。遺作となったのも、高倉健との共演で、富山刑務所の刑務官が北九州の海で散骨をするという内容の映画でした。

 昭和の時代、テレビのドラマでよく見る俳優でしたが、なぜか強く印象に残りイメージと一体化しているのが、「喜びも悲しみも幾歳月」という灯台守のドラマでした。昭和40年代の終わり頃だったと思います。

 NHKの大河ドラマで、紀州藩の家老役をやっていたのを見たためか、大滝秀治という俳優は和歌山というイメージも付帯しています。「喜びも悲しみも幾歳月」というドラマもなぜか和歌山の南紀というイメージが一つに残っています。トルコ海軍の遭難事故のことは知らなかったと思うのですが。

喜びも悲しみも幾歳月 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%96%9C%E3%81%B3%E3%82%82%E6%82%B2%E3%81%97%E3%81%BF%E3%82%82%E5%B9%BE%E6%AD%B3%E6%9C%88>

 前にも調べたことがあったのですが、大滝秀治という出演者の名前は見当たりません。大滝秀治というwikipediaでも、「喜び」と検索を掛けてヒットはありませんでした。なにか他のドラマと記憶を混同させていた可能性は考えられます。

 被告発人大網健二との初めての思い出も、同じ昭和40年代後半のことで、テレビアニメのタイガーマスクの今でいうフィギアのような人形の玩具とリングのことでした。駄々をこねて買ってもらったことで、強烈な軽蔑心を向けられました。その玩具はそのあと廃棄処分したとも考えられます。

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