# [1984]金沢市場輸送で被告発人大網健二と石巻の魚市場から生マグロを運んだときのこと、栃木県小山市でわかれた #
本当は、佐藤大和弁護士について一緒に書いておこうと思ったのですが、項目を分けて書くことにしました。佐藤大和弁護士は宮城県石巻市出身ということでも印象深いテレビによく出ている弁護士です。北周士弁護士、田村隼人弁護士ともYouTube動画に出るなど親交があります。
私が宮城県石巻市に行ったのはその時が初めてだったかもしれません。昭和59年のことです。当時は定期便もなかったので滅多に行く場所ではなかったですが、大型車は四国や南九州までエサを運ぶ仕事が多かったので、石巻の運送会社とは付き合いがあって、仕事が舞い込むこともあったようです。
仙台に初めて行ったときは、宮川という先輩の運転手が同乗していました。塩釜から7トンか8トンほどの冷凍物を運んできたように思います。それだけの重量を積んで走行したのもその時が初めてだったように思います。エアーブレーキーではない時代の4トントラックでした。
塩釜の港の側の冷蔵庫は、周辺の景色を含め映画にも出てくるような印象的なものでしたが、その後も一人で何回か行った記憶が残っています。広場のような三叉路の突き当りの右手にあったように思います。
石巻の魚市場は、当時、東日本最大の魚市場と聞いていました。歴史を感じさせる長くて大きな建物で2階に食堂がありました。誰かから話を聞いていてエビフライ定食を食べたのですが、当時は見たこともなかった頭と尻尾つきの大きなエビのフライで驚きました。
当時、石巻へは、仙台から塩釜、松島を通って行っていましたし、帰りも同じ道でした。日本三景の松島ですが、観光地がそのまま国道45号線になっていました。
仙台市から石巻市までは60キロと道路標識に出ていたと思います。鳴瀬川の橋を渡ると石巻市に入ったと思いますが、市内に近づくと右手に木材置き場が広がっていました。あれほど規模の大きな木材置き場は、他で見たことがなかったように思います。
突き当りの道路を左折したようなこともかすかに憶えています。そしてそこから少し走ると、日和大橋がありました。弧を描く大きな橋で有料でした。大型車で250円ではなかったかと思います。橋を降りたところに料金所があって、その付近は強烈な異臭が立ち込めていました。
魚の加工場が多かったためと思いますが、道路にも運搬でこぼれ落ちた魚が踏みつけられ黒光りのような状態になっていることも珍しくはなかったように思います。
料金所を出て50メートルから100メートル走って右折し、また50メートルぐらいで魚市場前の広い通りに出たように思います。この広い道路の右手に魚市場の建物がありました。
ついでに書いておきますが、日和大橋の料金所からまっすぐ走ると、イという文字のかたちで、石巻市街から女川に向かう道路にぶつかりました。このぶつかった道路から少しの右手に東北陸運の事務所がありました。支店か営業所だったと思います。
イの字の交差点を左に少し行くと左手に広場があって、そこが定期便の荷物を積み込む場所となっていました。もう少し先の右手にコンビニがあって歩いていける距離でした。ローソンであったように思います。
午前中の10時半か11時頃だったと思いますが、大勢で小型車で荷物を運んできてバタバタと積み替えてくれました。荷物の種類が多く卸先も多かったので、どの辺りに何を積んだのか頭に入れておく必要がありました。
荷物の多い時期は、そのまま石巻から金沢に向かうこともありましたが、ほとんどは塩釜の立ち寄りでした。塩釜を出発するのは13時半から14時過ぎだったように思います。
定期便の最初は、石巻の東北と塩釜の宮城陸上からだったように思いますが、仕事が増えて、塩釜の東北陸運の本社からも荷物を運ぶようになりました。ここでは苫小牧から仙台にフェリーで運ばれてきた北海道の荷物も多かったです。
12月の荷物の多い時期などは3,4台のトラックが出ていたと思います。4トン車が入ることもありました。荷物の行き先は基本として、糸魚川、富山、高岡、金沢、福井でした。高岡と福井は金沢から中継を出していました。高岡は守田水産輸送でしたが、そのうち都商事となっていました。
糸魚川は新潟県です。塩釜の荷物は生マグロと練り製品が多かったです。練り製品は、金沢の中央卸売市場の周辺の食品会社にも降ろしていました。石川中央食品、イケハタ、カナカンなどがお決まりでした。
この東北の定期便は昭和59年にはなかったもので、昭和61年8月に私が2度目の入社をした頃にはやっていました。市内配達の仕事をしていた頃にも、頼まれて臨時で行ったことがありました。
石巻の仕事は、ほとんどが泊まりだったと思います。移動も多く、青森、秋田、岩手、福島、それに東京から荷物を降ろして翌日積みで向かったものです。仙台で荷降ろしをしても泊まりになることはありましたが、着発で塩釜から運ぶことも多かったです。
塩釜の方は泊まりの方が少なかったかもしれません。雑貨の荷物を降ろし、早朝の6時ぐらいに塩釜に着いて、仮眠をして11時頃から荷物を積み込んでいました。雑貨だと出発の時間も遅いので夜通し走ってくることになります。このパターンは、古河の青果の仕事でもありました。
仙台へはアルミサッシの仕事や小松市から積水のバンドを運んだような記憶も残っています。雑貨はトナミ運輸の仕事で第一貨物に降ろしていました。中越運送の仕事は福島県の郡山市と名取市の2か所卸でしたが、それで鮮魚の着発はなかったようにも思います。
被告発人大網健二と別々の4トン車で生マグロを積み込んだのは、興勝運輸の仕事でした。小さい運送会社と聞いていましたが、仮装したピカピカのトラックばかりでした。事務所にも行ったことがあったのですが、材木置き場の近くで、住宅を兼ねた牧場のような建物だったという印象が残っています。
鮮魚の仕事というのは、「追っかけ」とも呼ばれる翌日の早朝あるいは未明の競りに間に合わせる仕事が多いのですが、市場が休みの日を挟んだり、遠方の場合は中一日を入れることもありました。遠方でも中一日を入れることは少なかったと思いますが、日曜日の休市は、週に一度はありました。
その時が日曜日をはさんでいたのか記憶にはないですが、中一日をはさむ運行として石巻を出発しました。どちらも生マグロの荷物でしたが、私が名古屋、被告発人大網健二が山梨県の甲府市だったと思います。別の市場と2か所卸と言っていたかもしれません。
今考えると、一度金沢に戻るか、手前の富山市から名古屋に向かった方が時間がかからずに済んだような気もします。慣れない運行ルートだったので、時間の計測も難しかったですし、日中に走行する場合は夜間の倍以上時間の掛かることも普通にあることでした。
結果として名古屋の市場に到着したのは未明の3時を過ぎていたようにも思います。気を抜かずに走ったのが良かったと安堵しました。ほとんど休まずに走行したのにそんな時間になったので、仮眠などしれていれば延着していたことでしょう。
当初はまだ余裕があると考えていました。仙台市内を抜けた辺りに仙台南有料道路というのがあって、大きな川沿いにもなっていたと思います。どこか別の場所に東北道の新しいインターが出来るまでは、ほとんどその有料道路を使っていました。
その仙台南有料道路は、左の側道に入ってバイパスの下をくぐるような道路になっていたと思いますが、ちょうどその辺りにパチンコ店があって、そこでしばらくパチンコをしたことを憶えています。当時はパチンコをしたのも珍しかったと思いますが、まだ明るい時間でした。
そのあとのことで記憶にあるのは、福島県の二本松の辺りだったと思いますが、国道4号線沿いの右手にセブンイレブンのコンビニがあり、そこの前の公衆電話から、東京の板橋区に住むという同級生に電話を掛け、被告発人大網健二と代わる代わる電話で話をしました。
被告発人大網健二の方が電話をかけようと言い出したもので、電話番号も彼が知っていました。宇出津高校を卒業して郵便局に就職したとも聞いていました。私の家のすぐ近所で小棚木に引っ越してきた頃から付き合いも多かったのですが、その後、消息も聞かなくなりました。
家は現在もほぼそのまま残っていますが、ずっと前に表札も変わっているので地縁はなくなっているのかもしれません。そういう同級生が他にも多いように思います。宇出津高校ではラクビー部だと聞いていました。能都中学校の頃は野球部だったと思います。
国道4号線で仙台市から東京方面に走ったのもその時が初めてだったと思います。新潟から会津若松を経由する国道49号線は、他にも走行することがあり、国道4号線に出て仙台方面にしばらく走ると二本松もあったので、仙台方面は走ったことがあったような気もしますが、東北道かもしれません。
二本松か本宮がセブンイレブンのあった場所だったと思います。本宮という地名も本宮ひろ志という有名で人気の漫画家がいたので、当時は印象深いものがありました。本宮という名前も全国的には多そうですが、能登では聞いたことがなく、地名も他に見ていなかったと思います。
そのセブンイレブンの前から電話をしたのは、遅くて23時ぐらいだったように思います。もう少し早い時間だったかもしれません。次に記憶にあるのは、栃木県の小山市で国道50号線との交差点の少し手前で左側にある大きな駐車場の食堂でした。
記憶にあるのは、その食堂の駐車場を出て出発する場面です。その先の国道50号線が被告発人大網健二との分かれ道となっていました。まだ午前中だったような記憶ですが、駐車場は舗装されておらず、大きな血だまりが出来ていました。鮮魚の輸送ではよくあることでしたが、特に多かったです。
東北便でも塩釜では生マグロの荷物が多く、半分以上が生マグロになることもありましたが、急ぎの仕事なので長時間駐車するようなことはまずありませんでした。生マグロは氷の量も多く、保冷車から流れ出す水も多かったですが、血の色が濃かったと思います。
この時の食堂のあった国道4号線は、その後通行することもほとんどなかったように思います。国道50号線とぶつかる交差点から水戸方面に5分から10分ぐらい走ったところに国道4号線のバイパスがあって、そちらのバイパスの方を利用していたからです。
旧の国道4号線と国道50号線が交わる交差点から東京方面は、よく通行していました。その旧の国道4号線沿いに古河の青果市場があったことと、その中間ぐらいに太陽鉱油のカードの使えるガソリンスタンドがあったからです。大型トラックが入るには小さなガソリンスタンドでした。間々田だったとも。
市場急配センターのトラックの給油で使っていたのは、太陽鉱油のカードだけでした。使える店舗が少なく不便でした。基本的に関東への運行では満タンで往復は出来たと思いますが、途中でハプニングがあればガス欠の心配も出てくるので、補給は心がけていました。
当時の大型車の経由のタンクは2つで、600リッターと聞いていましたが、よく入って550リッターぐらいだったと思います。ガス欠を起こしたときもそれぐらいでした。それも鮮魚を積んで青森に向かっていました。長崎から戻った運行でそのまま走行してのです。
富山県の魚津市で給油をするつもりでいたのですが、砺波のインターの付近でガス欠を起こしたように思います。鮮魚を積んでいただけにあせりも多かったですが、痛い目にあっただけに面倒に感じることの多かった給油もまめにするようになったのです。
太陽鉱油は金沢市内にもカードの使える店舗はなく、河北郡津幡町まで行っていました。往復で考えると馬鹿にならない距離と時間だったと思います。それでも平成3年の12月の20日過ぎまでは、金沢市場輸送の事務所前の給油機で給油していたことを記憶しています。
今では日付の特定までは困難となっていますが、12月の27日あたりだったと思います。その金沢市場輸送の給油機の前で、被告発人多田敏明と西口君に誘われたことがきっかけで、被告発人HTNと諸江の焼肉店に行くことになったのです。誘ってきたのも珍しく思ったし、普通ではないと思いました。
西口君の年齢は思い出せないと思ったのですが、被告発人安田繁克と同い年と聞いたようなことを思い出しました。同じ能都町の瑞穂の出身だと聞いていました。瑞穂の出身だと聞いて多少付き合いのあったのは、この西口君とKYNの妻となった彼女の二人だけでした。
私が能都中学校だった頃は瑞穂中学校というのも聞いていましたが、その途中にあってもっと人数が多かったはずの鵜川中学校も数年前に能都中学校と合併したように聞いています。鵜川中学校は被告発人安田敏の出身校でもあるはずです。
能都町の瑞穂も能登町となっていますが、瑞穂という地名は地元以外にほとんど知られていないと思いますが、その場所はかなり知られていると思われます。先日も情熱大陸という番組に出ていましたが、世界一になったジェラートの職人がいて、その人がマルガージェラートという店を田舎に開いています。
昭和の頃は、宇出津から穴水・金沢方面に行くのは、鵜川から瑞穂という国道249号線を通ることが多かったのですが、もうずいぶん前から珠洲道路の方を使うのが普通になっていると思います。現在でも交通量は少なくはないはずですが、道路の状態が悪い場所もあるので、気になります。
バイクだと道路の状態が悪くて、ヘッドライトの球が壊れたこともあります。珠洲道路も同じですが、スピードの早い車がいて、バイクでは危ない思いをしたり、気を使うことが多いので、昨年辺りからちょっとした買い物も穴水町ではなく、輪島市内に行くようになりました。
ざっとGoogleマップを見ていたのですが、下仁田から国道254号線というのは、名古屋に向かうのに走った可能性はありそうです。下仁田というのは1度は通行したことがありました。コンニャクで有名な地名ですが、名古屋に向かうのに通った道だという記憶はありませんでした。
国道18号線や国道19号線以外の道路を走ったことは間違いありません。トンネルの出口で小休止したことと、ひなびた温泉街の近くを通ったことは情景として記憶に残っています。
名古屋の市場というのは、名古屋市内の市場と、小牧市の近くの北部市場があり、北部市場の方が行くことが多かったとも思うのですが、石巻から生マグロを運んだ時は名古屋市内の市場だったと思います。
甲府市の市場というのは、国道20線沿いで長野方面に向かうと右手に看板の出た建物や敷地が見えたという記憶がありますが、仕事で入ったことはありませんでした。市場の雰囲気は宇都宮の市場に似ているという印象もあったのですが、宇都宮の市場もどの辺りにあったのか記憶から消えています。
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